
多動と不注意で生きづらかった過去。障害のせいにして可能性を放棄しないために
不注意なミス、じっとしていられない多動性をはじめ、衝動性や時間管理の難しさを感じることが多いと言われるADHD。
今回のインタビューでは、ADHD当事者でもあり、精神保健福祉士、社会福祉士の野中麻衣子さんにお話を伺いました。
就労移行支援事業所でピアスタッフとして働いていたり、発達障害の当事者会運営もしている野中さんに、ADHDにまつわるこれまでのご経験や支援スタッフとして感じることなどをお話しいただきました。
目次
多動で不器用。ばい菌扱いされていじめも
子どもの頃は、割と落ち着きがない子でした。
幼稚園時代は、手先が不器用でハサミでうまく切れなかったり、のりを使ってもベチャベチャになったり。
幼稚園の入園式の日に、みんなが集まった教室で、なぜか教室を一人でぐるっと回ったというエピソードを母から聞いたこともあります。
なぜそんなことをしたのか、今となっては覚えてないのですが、多分「多動」だったんだと思います。
小学校に入っても、自分ではそのことに気付いていませんでした。
それよりも、たびたび先生から注意を受けていたので、「自分はダメな子なんだ」と感じていました。
授業中いつもそわそわしていたり…
気が付いたらぼんやりして窓の外を見ていたり…
ノートもぐちゃぐちゃだったり…
机の中から、カビのはえたパンが出てきたこともありました。
そういったことを先生に注意されて気を付けようと思ったのですが、うまく出来なくて落ち込みましたね。
高学年になったころからいじめにも遭いました。
何がきっかけだったのか自分でも覚えていませんが、いつの間にかそういう空気になっていたと思います。
ばい菌扱いをされたり、「あいつに触ったら汚い」と言われたりしました。
それで親に相談したら、親が学校に相談して、自分が思ったより大きな騒ぎになってしまったんです。
結果、いじめは一応終わりましたが、周りに避けられるようになりました。
いじめられている頃よりはよかったですが、一方で先生からもいじめに近いことをされました。
隣りのクラスの先生に目の敵にされていて、学年で集まった時に、わざとみんなの前で注意をされたりして、結構つらかったですね。
そんなことが続いていたので、なかなか学校に居場所が見出せなくて辛かったです。
小学校の低学年のときは多動のほうが強かったのですが、5~6年になるとそれを抑えつけて、逆にふさぎ込んでいました。
中学校に入学したことで環境が変わっていじめから解放され、友達も出来ました。
発達上の影響だと思いますが、小学校時代から疲れやすいところがあったので、中学校では部活に入りませんでした。もう本当にいっぱいいっぱいで。
中学生のときは英語が一番得意で、通知表で5を取りました。次に数学でも5を取って、初めて人に負けないものができました。
自信になるし、周囲からも認められたことは素直に嬉しかったです。
ADHDの特性?ただの努力不足?
しかし、難しい場面もありました。
ADHDというのは不注意と衝動性と多動性の3つが組み合わさった障害だと言われています。
・ノートが汚い
・物をなくす
といった不注意の衝動があるのですが、私は計算ミスという形であらわれて苦しめられました。
その頃は発達障害という言葉は知らなくて、動いてしまったり、不注意になってしまうことで、周囲との違和感はずっとありましたが、まさか病気だとは思っていませんでした。
「努力不足だ」「自分が駄目だからだ」と。
周りにも、発達障害だと気づく人はいませんでした。
それでも英語で5を取れたのは、その頃好きだった邦楽に英語の歌詞が多く出てきて、「その意味を知りたい」と思ったからでした。
数学はちょっと違う動機で、父に「何でこんなのも分からないんだ」と言われたりしたのが悔しくて、「この野郎、やってやる」と負けず嫌いが出て頑張りました。笑
ただ、全体の成績はばらつきがあり、受験失敗。不本意で女子校に入りましたが、その女子校が合いませんでした。
女子だけの独特な雰囲気の中で、仲間はずれや嫌がらせに遭ったりしました。
進学校でもあったので、勉強についていくのも大変でした。
成績が悪くて、親からプレッシャーをかけられて、先生からも成績のことを言われるし、友達ともうまくいかなくて辛かったです。
「学校へ行きたくない」と何度も思いましたが、ほかのクラスにいた中学時代からの友達が唯一の逃げ場になってくれていました。
引きこもるしかなかった浪人時代
大学受験もうまくいかず、浪人しましたが予備校に行くのが嫌で引きこもっていました。
高校を卒業した後に、家庭の事情で愛媛から福岡に引っ越して、知らない場所で友達もいなくて、引きこもるしかなかったんです。
ずっと家にいて、結局、全然勉強をしませんでした。とても勉強ができる精神状態でもなかったんですけど。
浪人中は精神的に不安定で、ひたすら家で寝ているのに近い状態でした。
引きこもっていたので、その1年はほとんど親との関わりしかなかったですね。
高校のとき、親は「〜という大学でないとお金は出さない」と言っていましたが、浪人時代になって、「もういいよ」と受けさせてくれました。
そのときの私は、毎日毎日泣いている状況で、さすがにこれは性格的な問題じゃなくて、もしかしたらメンタル的に問題があるのかもしれない、とは思いました。
でも、精神科とか心療内科に行くことを親が賛成していなかったので、受診することはありませんでした。
精神科などの存在自体、身近なものではなかったので。
そうして浪人生活を過ごして、大学に入って教員免許を取りました。
発達障害のことは教員免許を取るときに知ったんです。
教育心理学という授業でADHDなどの説明が細かく出ていて、「あれ、これって私のことじゃないのかな」と思って。
でも、大学のときは比較的成績もよくて、人間関係もあまり不自由がなかったから、そのときは「違うのかな」とかと思って病院に行くことはありませんでした。
「発達障害イコール知的障害」みたいなイメージも当時はあったので、私は成績もいいし違うんじゃないかなと。
大学ではすごく勉強を頑張って成績の8割がA評価でした。ADHDのいい面が出たのかもしれません。
集中力が続かなくて困ってはいましたが、数学はあまり文字を読まなくていいのと、大学は自分のペースで勉強できることが多いので、夜中に勉強したりしていて、成績に繋がりました。
これだけ成績が結果として出たので、それは自信につながりました。
人生で2番目によかったときですね。
後にも先にも、こんなに勉強を頑張ることはないと思います。
大学は、親が希望しているようなところには入れなかったわけなので、その代わり、大学院に行くと約束して東京に出してもらいました。
約束したからには大学院に行かなくてはと思って必死にやっていましたし、私自身も特技を1つ作りたかったというのもありました。
でも、大学院に入ってすごい挫折を味わったんです。
実は、大学の後半に母親が乳がんになってしまいました。
一応、命は助かりましたが、経済的に今までどおりにいかなくなって、「大学院は自分で学費を出して行こう」と考えるようになりました。
アルバイトをしながら勉強することを目指したのですが、それがどうしてもうまくいきませんでした。
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- 本記事は2018年2月15日に公開されました。現在の状況とは異なる可能性があることをご了承ください。