自分の居場所や愛情を感じない世界で【赤津ゆいさん Part2】

2017.10.30公開
 
シェア
ツイート
はてブ
お気に入り
共感
48

両親から離れられた高校時代

高校からは、実家から逃げるようにして、親戚の家から学校に通うようになりました。

 

祖母の義理の兄弟の家だったので、再び祖母とも近くなり、しかも両親と離れられたのでバイトや部活も自由にできました。

 

高校では親に虐待を受けていたとか、親が再婚したとか、年が離れた兄弟姉妹がいるとか、似たような環境の子が多くて、ねたましいといった感情はありませんでした。

 

「私たちだけじゃなかったんだ」と心強くなりました。

 

学校の先生も私たちの境遇に理解をしてくれて、いい意味で好きにさせてくれました。

 

 

不登校が嘘だったように学校に通えた

高校では親友と呼べる子が1人だけできて、同じ大学にも行きました。

 

私は大学を中退してしまいましたが、その子がいたから、大学に行けた部分も大きかったです。

 

お互いに連絡先は知っていましたが、「メールするより会った方が早いよね」と、毎日高校へ行っていたんですよ。

 

中学の頃、不登校だったことが嘘みたいに。

 

先生もすごくいい先生ばかりでした。

 

国語の授業がとても好きで、「今日は〇〇先生の国語の授業があるから行こう」とか、「今日は〇〇先生の英語があるから行こう」という感じでした。

 

無理やり学校に行く感覚は全くなく、朝起きて自然と「あ、学校に行こう」と思っていました。

 

DSC_7340

 

 

自分を受け入れてもらえた感覚

担任の先生は美術の先生でした。

 

私、精神的に不安なときにぬいぐるみに喋りかけるととても落ち着くんですが、それでぬいぐるみを学校に持って行ったことがあったんです。

 

学校にぬいぐるみを持って行ったら、「何だこれ」と言う人もいると思うんですけど、「この子、名前何ていうの?」「どこの出身なの?」と受け入れてくれたんです。

 

それから、自分も受け入れてもらえたような気がして、「ここはすごく居心地のいい場所だ」「大人は信用していいんだ」と思えるようになりました。

 

そういったこともあって、高校の先生で嫌いな先生は1人もいないんです。不思議なくらいに。

 

何かしら問題を抱えている子が多い高校だったので、先生たちも慣れていたというのもあるとは思いますが。

 

 

認めてもらえたから頑張れた

受験勉強では、特に数学が全然できませんでした。

 

小学生レベルからできない状態で高校に入って、授業が始まってもできるわけがなくて…。

 

それが悔しくて「私だってやってやる」と思って、毎日数学の先生のところに行って勉強を教わりました。

 

高校ではかなり勉強していたと思います。

 

なんでそんなに頑張れたかと言うと、ほめてくれるんです。「頑張ったね」と認めてもらえる。

 

今まで認めてくれる大人が周りにいなかったので、認めてもらえるということが私にとってすごく大きいことだったと思います。

 

 

担任の先生が美大へ…

1年生の時、担任の先生が美大へ移ることが決まり、卒業後の進路として美大がすごく気になり始めていました。

 

そこで、どんなところだろうと思って、親友と一緒にオープンキャンパスに行ったんですが、山奥の学校で「何てところなんだろう」と驚きましたね(笑)

 

その大学で新たに、小説や記事の編集者を育てる学科ができると聞いて、「そこに行きたい」と担任の先生に相談したら、「あなたなら合格できるよ」と言われて。

 

三者面談のときも、先生が母親に「他の学科だったら止めますけど、この学科だったら安心して行けます」と言ってくれて、すんなり大学に行けました。

 

 

妹は大学進学を諦めた

でも、私が大学に行った代わりに妹が大学に行けませんでした。

 

経済面の問題などがあって、妹が大学進学を諦めたと聞いたとき、「私も大学へは行かない」と言ったんです。私だけ大学に行ったら意味がないと思って。

 

でも妹が、「いいよ、行きなよ」と言ってくれて、それも大学進学のきっかけになりました。

 

ちなみに、妹は高校卒業後、美術館に勤めました。非常勤でしたが、一応地方公務員です。

 

妹はすごく造詣が深くて、私が大学で勉強したことを話すと「ああ、あれでしょう」と知っているんです。彼女もすごい勉強家なので。

 

DSC_7346

 

 

母親や親戚からの過干渉

大学に入ると、母親が「妹がちゃんと働いてるのに、何であんた学生なんてやってんの。早くやめてこっちへ戻ってきなさいよ」と言ってきました。

 

学費を出してくれた親類からは講義の合間でも講義を終わった後でも毎回電話がかかってきていました。

 

着信が毎回携帯を見るたびに、5件、10件は入っているくらい、すごい過干渉でした。

 

それが原因で大学1年生の夏にまた体調が悪くなってしまいました。

 

「何で私の人生にこんなにかかわってくるんだろう」と、しんどくなってしまって。

 

それで山形駅の近くの小さいクリニックを紹介してもらい心療内科に通いました。そこには5年通いましたね。

 

 

過干渉に「もう駄目だ」と感じる

親類からの過干渉は高校の時からすごくて、高校生のときにかばんを見られたことがあったんです。

 

私たちがお風呂に入っている間に、何を持っているのかチェックしていたようで、妹のかばんをあさっているところを見てしまいました。

 

「1を知ったら10知らないといけない。親代わりってそういうもんだよね」、という考えの人だったんです。

 

その親類は、独身で子どもを育てたことがないから仕方ないとは思ってはいたんですが、大学に入ってその度が過ぎていってしまったので、「もう駄目だ」と思ってしまいました。

 

大学の単位も落として留年をして、結局大学はやめてしまいました。

 

みんなが卒業するという年に中退して、1年くらい山形のスナックに勤めました。

 

周りが卒業する中で中退することになって、うらやましいとは思いました。

 

その一方で、他にも中退する人はいましたし、通信制という手段もあると思ったら、「いつでも新しいスタートはできる」とも思っていました。

 

 

自傷行為、閉鎖病棟への入院

大学を中退してからも体調はしんどかったです。

 

お医者さんに、薬は多めに飲まないように言われたのでずっと守っていましたが、その代わり自傷行為が激しくなって、閉鎖病棟に入院することになりました。

 

閉鎖病棟に入ったら、逆に親が離れていきましたね。

 

精神科の閉鎖病棟というので、「この娘は本当におかしいんだ」と離れていって、逆に親類は「こんな状態なのにどうして」ともっと過干渉になってきちゃって、あれはいいことなかったですね。

 

親類の方はどうしてもかかわりを持ちたかったんだと思います。一人になると寂しかったんでしょうね。

 

子どももいなければ配偶者がいるわけでもないから、私が目についてしまったんだと思います。

 

DSC_7349

 

 

本すら読めない閉鎖病棟での生活

閉鎖病棟では本も読めませんでした。

 

何もできずに、食事のときは食事に行って、お風呂のときはお風呂に行って、あとベッドに寝ているだけで。

 

その当時、付き合っていた彼氏は来てくれてはいましたが、それも限られた時間だけでした。

 

少しずつよくなって普通病棟に行ったときは、少し病院内を歩いてみたりもしましたが、それ以外はずっと部屋にこもっているような状態です。

 

 

境界性パーソナリティ障害と診断

診断名は境界性パーソナリティ障害でした。

 

親から愛情を受けられていなかったことで愛着障害の一種もありました。

 

今思うと、全くもってそのとおりだなと思います。

 

親の愛をすごく求めていて、その代わりじゃないですけど、その当時は彼氏がとっかえひっかえの状態でした。男性に求めてしまっていたんでしょうね。

 

生活も昼夜逆転して、キャバクラやスナックに勤めていた時期もありました。

 

何かすがりたいというか、信頼できる人とか安心できる場所というものをずっと探していました。

 

 

ぬくもりや自分の居場所のない世界で

自分の居場所が何もなかった時に、今の娘の父親と出会ったんです。

 

大学を留年したときに出会ったのですが、その人は発達障がいを持っていて、お互いに生きにくさを抱えていたというところで、共感し合い、ひかれ合っていたんだと思います。

 

でも、そういう人がいたとしても、安心することができず、当時の私は浮気を繰り返していました。

 

当時の私を含め、生きづらさを抱えている人は、ぬくもりや愛情がとても足りない状況にあるのかな、と思います。

 

妹もそうですし、高校で出会った女の子たちもやっぱり生きにくさを感じていました。彼氏がいたとしても次の週には変わっている友達もいたくらいです。

 

今思うと、親からの愛情に飢えていたんだろうな、と。

 

DSC_7304

 

 

「俺のために稼げ」と言われて

大学を中退してからは仕事を転々として、自傷行為をしたこともありましたが、こういった状況から抜け出すきっかけと言うか、突破口があって。

 

悪い話なんですけど、あるNPOの方にだまされたというか、半ば洗脳されて東京の風俗に勤めることになったんです。

 

学習支援のNPOの人でしたが、大学の同級生に紹介されて活動に参加するようになり、プライベートでも付き合いが始まりました。

 

プライベートで付き合うようになってから、「あれしろこれしろ」、「お前はこうしなきゃ駄目だ」、「駄目人間だ」と言われ、スマートフォンも取り上げられてしまったんです。

 

「俺のために稼げ」とも言われました。お金はなかったのですが、「その人が絶対だ」とすり込まれていたので、「分かりました」と風俗で働くことになったんです。

 

風俗に行って、「何で私ここにいるんだろう」と思った瞬間に、逃げようと思って、東京を中心に活動しているNPO団体ボンドプロジェクトさんに連絡して保護してもらいました。

 

それがそれまでの生活から抜け出すきっかけでしたね。

 

 

 

ボンドプロジェクトとの出会い

前々から、ボンドプロジェクトの代表の橘ジュンさんという方は知っていました。

 

風俗で働き始めてからはずっと転泊をしていてのですが、1回だけホテルに泊まることがあったんですね。

 

ホテルに泊まったときにホテルのラウンジにあったパソコンで調べて、メールを打って、そのままタクシーに乗って荒川まで行きました。

 

西日暮里でボンドプロジェクトのスタッフさんと合流できてシェルターのほうに入れてもらったんです。

 

 

シェルターは家みたいな場所

シェルターの場所は言えないんですが、家みたいな感じで落ち着く環境です。

 

そのときはシェルターにいるのは私だけでした

 

保護されて、橘さんが山形県警にも連絡をしてくれて、ようやく家に帰れました。

 

その家も引き払うことになり、山形から祖母のいる茨城に戻ってきたんです。

 

祖母の家にまた住めることになって、落ち着いた生活の中、仲良くやっていたのですが、そこで私の妊娠が発覚してしまったんです。

 

続きは第3回へ(10月31日公開)

 

 

赤津ゆいさん全インタビュー

【Part1】「私はいらない子」とずっと思っていた子ども時代

【Part2】自分の居場所や愛情を感じない世界で

【Part3】「諦めず、真っすぐ前を向いて生きていく」(10月31日公開)

 

 

インタビューを受けてくださる方、募集中です

臨床心理士、精神保健福祉士、看護師、保健師、産業カウンセラー、支援機関の職員など、すでに多くの方にインタビューを行っています。ご自身が、有名かどうか、権威かどうかは関係ありません。

 

また、精神疾患などの当事者の方、メンタルヘルスや人間関係でお悩みの方などのインタビューも行っております。

 

これまでの経験・取り組みや、ご自身の想いを読者に届けていただき、Remeのミッションである「こころの専門家へのアクセスの向上」「こころの健康に関するリテラシーの向上」の実現のために、お力をお貸しいただけますと幸いです。

 

 

ご興味をお持ちいただけましたら、下記フォームよりお問い合わせください。24時間以内にご連絡いたします。

お名前
メールアドレス
保有資格・所属・ご要望など

LINEバナー
シェア
ツイート
はてブ
お気に入り
共感
48

関連記事