発達障害で仕事が続かず、うつ病で退職も。今安定して働く私の「自分トリセツ」

2018.02.04公開 2020.06.05更新

43歳で大学院に入学。専門学校の教員に

吉野家を辞めて途方に暮れていた時に、横浜の病院でリハビリ助手の募集を見つけ、応募したら、正社員で採用されました。

 

そこで日系ブラジル人の理学療法士の方と出会いました。

 

私が、高校時代に理学療法士になることを断念した話をすると、

 

「もう1回チャレンジしてみたら?」

「君だったら性格的にも良いし、良い理学療法士になるよ」

 

と真剣に言ってくれたんです。

 

それから、白衣のポケットに英単語の本を入れたりして勉強していましたが、独学では厳しいと感じて、看護医療予備校に行きました。

 

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英語と生物だけは偏差値70まで上げました。

 

そして、英語と生物、小論文で受けられる4年制の大学があったので、そこを受けることにしました。

 

昼は稼がないと授業料が払えない、生活できないと思いましたが、挑戦したいと思って。

 

「お金なんてなんとでもなるんじゃないか」、と思っていたんですね。

 

ただ、受験当日に寝坊をして、そこは受けることができませんでした(笑)

 

結局、その前に受けていた名古屋の夜間の専門学校に合格したので、31歳で相模原から名古屋に引っ越しました。

 

その後、35歳でついに理学療法士の資格を取ることができました。

 

さらに43歳の頃に、今度は大学院に入学して、勉強しながら44歳で京都の専門学校の教員になりました。

 

45歳で担任を任されたときは、「よし、良いクラスを作るぞ」と、やる気満々でした。

 

ただ、クラスでは盗難があったり、ロッカーに「死ね」と書いてあったりと、大変な状態でした。

 

その学校は割と大きな専門学校で、教職員の研修が頻繁にあり、私が受けた研修のテーマが『発達障害がある学生への対応』でした。

 

「学生をイメージしてこの発達障害のチェックシートにチェックしてください」

 

と言われて、クラスもうまくいっていないし、藁をもすがる思いでチェックをしようとしました。

 

ただ、チェックシートを見ているうちに、私自身がほとんどの項目で該当していることに気が付きました。

 

その時まで、色々な生きづらさがあったものの、自分が発達障害とは全く思っていませんでした。

 

それで、隣にいた教務主任の先生に「先生、私、全て該当するんですけど」と伝えて、京都府立の精神科の病院に行きました。

 

そこで「広汎性発達障害」「うつ病エピソード」と診断されました。

 

発達障害と診断されたのが、12月の寒い時期でした。

 

当時、倦怠感や睡眠障害などがあり、睡眠障害が特にひどくて、しんどいのに寝れない、寝たけれど目が覚める。という状態でした。

 

それでもなんとか仕事を続け、クリスマスを過ぎた頃に学生は冬休みに入りました。

 

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「このままじゃ仕事はできない」

1月5日が新年最初の受診日だったのですが、起きようと思っても起きられませんでした。

 

奥さんを呼んで、抱えられて車に乗せてもらい、神戸から京都の宇治まで連れていってもらいました。

 

そこで精神科の主治医に言われたのが、

 

「しばらくお仕事お休みしましょうかね」でした。

 

それを言われた時に、救われました。

 

「このままじゃ仕事はできない」

「でも仕事は辞めたくない」

「でもこれでは心身ともにボロボロになってしまう」

 

と思っていた矢先のことだったので。

 

冬休みもいつも通り仕事に出るのですが、全身の倦怠感がひどく、他の教員からも心配されるほどで、そのまま仕事をしばらく休むことになりました。

 

休職は半年という期限がありましたが、私としては、担任を外してもらえたので、これなら続けられそうだと思っていました。

 

でも、治らないんですよね。

 

自分がかなりのダメージを受けていたということを自覚していなかったんです。

 

「うつ病ってそんなに大変なのか」という感じでした。

 

仕事への復帰はそんなに甘いものではなくて、結局、退職することになりました。

 

その後、1年3ヶ月の自宅療養を経て、社会復帰をして今、6年目です。

 

実は、6年も続けられるって、驚異的なこととも言われています。

 

私は理学療法士ですが、うつ病の運動療法の効果というものを知っていました。

 

「セロトニンを増やすと良い」というので、自宅療養中に近くの大きな公園を20キロくらい歩いたりしました。

 

「あー気持ち良い」「緑が気持ち良い」と感じながらゆったりと歩いていたんです。

 

その知識が幸いして、自宅療養期間も1年3ヶ月で終えられました。

 

もちろん、みんながみんな同じように復帰できるとは限りません。

 

そのまま引きこもってしまう人もいるし、仕事をしたくて就労移行支援事業所に行っても、働けなかったという人も多いです。

 

でも私はこうして働くことができています。

 

その理由の一つとして運動療法の知識があったことがあると思います。

 

運動以外にも、温泉に毎日行っていました。

 

これも運が良くて、自宅の近くに有馬温泉があったんです。

 

仕事もせず、温泉に行って、ゆったりした状態で「うわー、気持ち良い」って。今思えば最高な時間ですよね(笑)

 

発達障害と診断を受けたのが大学院3年目の時。

 

自宅療養をしながら論文を仕上げる過程で、「しんどい時は頑張らずに寝る」ということを身につけました。

 

ビルのように積まれた文献の中で、疲れたらとりあえず寝て、瞑想してスッキリしたら、パッと起きて論文を書く、ということをしていました。

 

那覇と筑波大学の2ヶ所の学会でも発表して、修士号を取得しました。

 

そして、46歳の3月に大学院を卒業して、47歳になって今の短大に採用されました。

 

さらに、47歳の年が明けた1月、結婚16年目にして娘が生まれました。

 

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正直、子どもを授かるという自信はありませんでした。

 

奥さんもバリバリ働いていたので、子どもを授かるタイミングも失っていましたし。

 

それが、16年目でなぜか生まれたんです。その頃は色々な良いことが続きましたね。

 

「昔のほうが良かった」とか「今は全然楽しくない」と言う人が少なくないと思いますが、私は、今が一番楽しいと思っています。

 

それでたまに、「今が楽しいと思う源って何だろう」と考えてみるんです。

 

娘の成長も楽しみですし、両親も健在。

 

親がうざいと思うこともありますが、親が80歳を過ぎても健在でいることは幸せなことだと思います。

 

今が楽しいと思えるもう1つの理由は、趣味が人生に潤いを与えているということです。

 

私は楽器を持っているので、学園祭で学生や教員と一緒に、2つのバンドで演奏しました。

 

「普通にならなくても良いんだ」と気づけた

50代になると見えてくるのが、定年という問題です。

 

僕としては70歳過ぎても、足腰が丈夫であれば仕事は続けたいと思っています。

 

今の仕事を続けていくという方法もありますが、結構マルチタスクで大変なのと、通勤時間も長い…(笑)

 

カイロプラクティックの学校にも行っていたので、今の仕事に限らず、例えばボディケアといったこともできます。

 

あるいは、発達障害者として講演活動もしているので、フリーランスという生き方もあるなとビジョンを描いています。

 

子どもの頃からずっと「お前は変だ」とか「変わり者だ」と言われ続けてきました。

 

いじめられ続けてきて、後輩からも馬鹿にされて、自分のプライドがぐっしゃり潰れた状態でした。

 

40歳過ぎまでは本当に、普通になりたいと思っていましたし、45歳まで自分の風貌や不器用さの原因が分からないまま生きてきたんです。

 

そんな私が大切にしているのは、やはり「独自性」じゃないかなと思います。

 

「今まで普通になろうとしていたけど、普通にならなくて良いんだ」と思えるようになりました。

 

診断を受けたことで、

 

「発達障害は生まれつきだから仕方がない。俺は俺だ」

 

という気持ちになれました。

 

「オンリーワン=自分らしく生きていこう」という風に前向きになれたんです。

 

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「自分トリセツ」と出会う前の話

私は前職・専門学校の教員時代に、初めての担任にて不適応を起こしたことがきっかけとなり、「発達障害」と二次障害である「うつ病エピソード」の診断がおりました。

 

前職では未診断ゆえ、「変わった普通の人・教員」として見られていました。

 

しかし、1対多数が苦手であるという特性が、自他ともに分からなかったこともあり、担任したクラスは早々に「学級崩壊」しました。

 

また、荒れたクラスゆえ、中学時代に不登校を繰り返してきた学生は、ゴールデンウイークを待たずに不登校になり、そのまま退学の道を選びました。

 

私のクラスが荒れていることに対して、

 

「担任はチームリーダーなんです。先生、しっかりしてください!」

「この学校の歴史上、前代未聞のことが起こっているんですよ!」

(火災報知器を鳴らしたり、トイレで暴れたり、頻繁な落書き、窃盗騒ぎなど)

 

と叱責されるなど、私の力不足、努力不足のみにクローズアップされ、もう地獄のような日々でした。

 

当時は副担任もいなかったのですから、現在の職場・人的環境から考えれば、私の担任采配、孤軍奮闘はもう無謀・無策としか言いようがないです。

 

担任をして8か月後である平成22年12月に診断され、主治医から付き添いの教務主任に対し、

 

「この人は一対多数の関わりは向いていません。即刻担任から外してください」と伝えられました。

 

医師の診断がおりたことで、職場は確実に動きました。

 

しかし、年明けに体が動かなくなり休職。

 

その半年後に決断を迫られ退職することになりました。

 

当時の不安がどれだけ大きいものだったか。

 

しかし、唯一の救いは家族や知人のほか、診断後に出会った発達障害者相談窓口の相談員など、身近に相談できる人たちがいたことです。

 

「自分取扱説明書」との出会い

私自身に「うつ病の運動療法」や「リハビリテーション栄養学」などの知識があったことも幸いして、実践しながら健康状態を回復させていくことができました。

 

自宅療養中ながらも、復学した大学院での修士論文の執筆や、指導教授から指導を受けるといった過剰なストレスを受ける時間はありましたが、

 

「とにかくしんどかったら、無理せずに瞑想する」

 

といったことなどで、セルフコントロールしながら何とか取り組んでいました。

 

また、いろいろな研修会に参加したり調べたりしていく中で、「自分取扱説明書(以下、自分トリセツ)」と出会いました。

 

その時点では流してしまったのですが、修士論文審査が合格し、大学院卒業と学位授与が見えた時点で就活の際に「自分トリセツ」を作成し、活用しようと思うようになりました。

 

「前職と同じような『失敗』を繰り返したくない」

 

そう思った私は、自分で作成した「自分トリセツ」を面接官へ渡すという大胆な作戦を決行することに腹を決めました。

 

面接官に対して、

 

「私は発達障害があります。」

 

「前職は不適応を起こし、そのストレスから二次障害であるうつ病になり休職、退職し、今まで自宅療養してまいりました。」

 

「こんな私をこちらでは雇っていただけますか?」

 

といった感じで、病院や訪問看護ステーションなどで面接へ臨みました。

 

それは私自身、面接官に「挑戦状」をたたきつけるような思いでした。

 

病院、訪問看護ステーション数か所からことごとく「不採用」通知をいただき、本当に落胆しました。

 

しかし、妻のすすめにより、理学療法士を養成する大学や短期大学への面接試験に挑戦しました。

 

幸いにも、私の専門である小児疾患の理学療法を教えることができることなど、少ない「武器」を評価されて、専任講師として採用されました。

・自分は、何が得意で、何が苦手か。

 

・苦手なものは、概ね(周囲の人たちから)どこまでのサポートが必要か。

私の場合は、「自分トリセツ」の“お手本”にしたものは特にないのです。

 

見聞きしたものをベースにパソコンにて無造作に羅列していき、バージョンアップを重ねる…という、手作り感満載の「自分トリセツ」を長い時間をかけて作りました。

 

ひらめいたらその都度、当時愛用していたモバイルパソコンを開き、打ち込んでいました。

 

このスキルは、修士論文の執筆の際に身につけたものかもしれません。

 

現職場での「自分トリセツ」活用事例

やはり、ある種の特性があり、苦手なことで何かしらのサポートを求める必要があるのなら、キーパーソン(上司や比較的理解ある同僚)に伝えることが不可欠になります。

 

私が現在の短期大学にて担任をするように命じられたのは、入職して3年目を迎えるころでした。

 

任命されてからはクラスの崩壊を懸念し、「学生は私のいうことを聞いてくれるのか?」と、不安が絶えませんでした。

 

そこで、さっそくバージョンアップした「自分トリセツ」を作成。

 

新入生が入学してくるまでの2か月間、副担任と他の専攻の担任との3人で、「自分トリセツ」をもとにミーティングで対話重ねることで、担任として学生ともしっかり向き合っています。

 

そして現在、岐阜保康短期大学にて勤続5年7か月を迎えることができました。

 

私自身の経験から、

・自宅療養から社会復帰に向けての就活

・入職してから後のこと

・新たな役割を任された際

などに、「自分トリセツ会議」をキーパーソンと行うことにより、仕事環境におけるサポートを得やすくなったと感じています。

 

「自分トリセツ会議」を通じて、他のスタッフへの伝達内容や伝えるタイミングなども同時に検討することで、仕事継続やその後のスキルアップに繋がるのではないでしょうか?

 

また、困り感や苦悩は変化するものなので、「自分トリセツ」のブラッシュアップや「自分トリセツ会議」は随時行うことが望ましいとも感じています。

 

私の場合、「自分トリセツ」は診断がおりた時に主治医から言われたように、キーパーソンのみに伝え、話し合うことを通してきました。

 

人によってとらえ方が異なります。「自分トリセツ」も例外ではありません。

 

不特定多数に発達障害特性に関する情報を回覧することは、理解と支援を拡大するどころか、疑問視する人たちを増やすことになるので慎重にしたいところです。

 

「自分トリセツ」はキーパーソンのみに伝えることで、上手く活用できるのではないでしょうか。

 

 

さいごに

「自分トリセツ」は、障害と向き合う本人と周囲の人たちを繋ぐコミュニケーションツールとして有効活用することが可能ですし、オススメです。

 

また、キーパーソンとの「自分トリセツ会議」によって、自己理解が育まれたり、職場における工夫や支援のイメージ化に繫がります。

 

より良い職場環境を作っていくために、ぜひ「自分トリセツ」を活用してみてくださいね。

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近藤雄太郎

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  • 本記事は2018年2月4日に公開されました。現在の状況とは異なる可能性があることをご了承ください。