「人の数だけ性も多様」LGBT当事者の養護教諭としてLGBTを学校で教える意味

2017.07.10公開 2020.06.07更新

今回のインタビューは、LGBT当事者でセクシュアルマイノリティの出張授業や講演活動をおこなっている養護教諭の井上鈴佳さん。

 

子供の頃から性への違和感があったものの、LGBTという言葉そのものを知ったのは保健室の先生として働き始めてから。

 

そして、LGBTは単なる性の問題だけでなく、命にかかわる問題なんだと感じさせた出来事がきっかけで、

 

「LGBT当事者でもある自分が伝えていくことで救われる子たちがいるんじゃないか」

 

との思いが芽生え、出張授業や講演活動に取り組まれています。

 

今回のインタビューでは、そんな井上さんのこれまでのご経験や現在の活動を通じて感じられていることをお話しいただきました。

 

真面目だった子供時代のいじめ

初めまして。井上鈴佳です。

 
子供の頃はすごく真面目で、先生の言うことは全部聞く。教科書は全部読む。親にとっては手のかからない子どもだったと思います。

 

剣道が好きで、7歳下の弟と新聞紙を丸めてチャンバラごっこをしたり。剣道は高校まで続けていました。

 

弟がわんぱくで、「弟に手がかかる分、私であんまり手をかけちゃいけないかな」と子どもながらに思っていたと思います。

 

本当は、「弟みたいにちょっとわんぱくしたい」という気持ちもありました。

 

ただ、小学校入ったぐらいから父の仕事が忙しくなり、弟に厳しくしつけのことを言うようになって、「これ以上、両親を困らせるわけにはいかない」と真面目になっていきました。

 

真面目であり続けて、しんどくなっていたんでしょうけど、無意識のうちに抑えていましたね。

 

小学校6年生の時にいじめにあいました。

 

真面目な生徒で授業中での発言が多かったので、やんちゃなグループから目を付けらたんです。

 

読書が好きでよく本を読んでいたんですが、「本を読むと、本の世界に熱中して、周りの音が聞こえなくなったりするんだ」とちらっと話していたら、お昼休みに本を読んでる目の前で思いっきり悪口を言われたり。

 

担任の先生に相談しましたが、「自分のせいじゃないの?」と言われて、余計に傷付きました。

 

母に言うと「困らせてしまうんじゃないか」とも思いましたが、任の先生はあまり良くない対応だったので、「母に言わないと何にも変わらないな」と思い、母に相談しました。

 

そしたら、母がママ友を連れて学校に乗り込み、校長先生に訴えて直談判してくれたんです。

 

その後、先生がいじめていた側の子に注意してくれたようで、いじめはなくなりました。

 

あの時、担任の先生に「あなたのせいじゃないの?」「あなたにも原因があったんじゃないの?」と言われたのは本当にショックでした。

 

そこで私は、傷つくようなことを言われたり辛い思いをした時に、一番に相談になれる人になりたいなと思って、養護教諭を目指し始めました。

 

保健室の先生を目指す

中学校はものすごく荒れていました。

 

体育の授業が終わって教室に帰ってきたら、たばこの煙で教室真っ白になってたり、先生が授業に入ってこられないように鍵閉めて締め出す、とかも日常茶飯事でした。

 

学年が上がるにつれてどんどんひどくなっていって、「これ大丈夫かな?」っていうのはありました。

 

小学校6年生の時の体験があったので、「同じようなことが起こり得るんじゃないか」という危機感がありました。

 

なので、なるべくいじめられないように振る舞っていましたね。

 

友達でいじめられてた男の子がいたんですけど、その子は高校に上がった時に、中学の時に受けたいじめがストレスの原因になって、ホームから人を突き落とす殺人事件を起こしてしまいました。

 

中学校では、それぐらいいじめがひどかったんです。

 

私はいじめられないように、テスト前とかにいじめっ子に勉強を教えていました。

 

普段はそこまで話さないけれども、いじめっ子もテスト前になるとテストの点数は気になるみたいで、でもノートは全く取ってない。

 

そこで私に、「ノート見せて」と言いに来るので、「じゃあ一緒に週末勉強しようか」みたいな流れではじまりました。

 

母がおやつを焼いてくれて、私は部屋で黙々といじめっ子に勉強を教える平和な勉強会です。

 

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中学2年生になって、国立大学に行かないと保健室の先生になれないことを知りました。

 

県の中でもトップクラスの高校に行かなければ、国立大に入れるのは数人になってしまう。

 

トップの学校から1つランクを落とすと、国立大に行けるのは学年に1人しかいないという話を聞きました。

 

「それだったらトップの高校に行かなきゃいけない」と焦って、3年生から塾に行き始めたんですけど、入塾テストになかなか受からず、必死に勉強しました。

 

塾の一番下のクラスの一番下の席からスタートしました。

 

それでも卒業する頃には、上のクラスの真ん中ぐらいまで順位を上げることができ、無事トップの学校に受かることができました。

 

高校3年間はとにかく楽しかったです。

 

3年生の文化祭で劇をするのが学校の恒例行事だったんですが、毎朝早い時間から学校に行って道具を作ったり、毎日夜9時ぐらいまでダンスの練習をしたり。

 

みんなと過ごした時間がすごく楽しかったです。文化祭での劇では最終的に最優秀賞を取ることができたのも良い思い出になっています。

 

大学では、4年間を通して保健室の先生になるための授業があり、1回生の時から実習もありました。小学生、中学校、高校、色々な学校に行きましたね。

 

保健室の先生は、医学から看護学、教育学、心理学など全部やらなくてはいけないので、大変なんですが、それでも1つ1つの授業がすごく楽しかったです。

 

「卒業できたのは先生のおかげです」

よく覚えているエピソードとしては、教育実習で、当時5年生だった子にボランティアとして保健室登校、別室登校に付き添ったことがあります。

 

なかなか学校に来るのもしんどい子でしたが、その子に1対1で向き合って、卒業式まで一緒に付き添うことができました。

 

教室でいじめを受けていた子でしたが、いじめっ子たちが別室にも休み時間に流れ込んで来て、色々言ってくることがあったんです。

 

その時には歯を食いしばって耐えてた子が、その子たちが帰った後で思いっきりわーっと泣き出して。

 

その時に「辛かったね、大変だったね」っていうのを背中さすりながらずーっと言ったりしたのが結構心の支えになっていたようです。

 

最後にその子がお母さんと2人で、「卒業できたのは先生のおかげです。ありがとうございました」って涙流しながら来てくれたのをとても覚えています。

 

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実際に教育実習に行ってみて、「やっぱり保健室にいるほうがいつでも相談にのれるかな」と思うようになりました。

 

担任の先生って、通常の業務で忙しすぎたり、生徒全員のことを見ていないといけないので、ゆっくり生徒の話を聞いてあげられないといった面があると感じることが多かったんです。

 

その分、保健室だったらゆっくり時間を取って、その子と1対1でお話できる時間が取れるので、保健室の先生への想いは日に日に強くなっていきました。

 

だからこそ、何かあった時のシェルターみたいな役割だったり、何か困ったことがあった時に、すぐに相談しやすい雰囲気のある保健室を作っていきたいと感じるようになりました。

 

荒れてる学校だと、「たまり場になるから」という理由で保健室が閉鎖されちゃうこともあるんです。

 

保健室は本来、怪我した時、悩みを相談したい時、ちょっとしんどくなった時、先生に怒られた後など、いつでも行って良いんです。

 

相談したい時に相談できる場所があって然るべきかと思うので、そういう場所として保健室は大切な場所だと思っています。

 

子どもたちの心と身体を、何かがあった時に救う受け皿みたいなイメージです。

 

1時間、お話しをして、「これはちょっと悩みが深そうだな」って思ったら、カウンセラーの先生に情報を共有した状態でお渡ししたり。

 

応急処置の場なので、継続的に医師などにかかるまでの間の受け皿という感じです。

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近藤雄太郎

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  • 本記事は2017年7月10日に公開されました。現在の状況とは異なる可能性があることをご了承ください。