息子が生きることを諦めなかったから今がある【濱島寛乃さんPart2】

2017.06.09公開 2017.06.10更新
 
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学校の先生になりたかった

私自身、小学生の頃から学校の先生になりたいと思っていました。

 

また、理想の大人像が当時の特別支援学級の先生だったこともあり、特別支援学校の教育免許が取れる大学を探して、私立の大学に入学しました。

 

入学後、授業を受けていく中で、半分以上が「教員採用試験に受かるための授業」に「こんな勉強しかしないで先生になるの?」という自分自身との葛藤がありました。

 

「こんな勉強をして現場に出て役に立つの?」「人の心を育てる側の人間になれるの?」ということをずっと疑問に思っていて、よく先生と喧嘩をしていました。

 

 

「分からない」を言わせないことが教育?

一番の疑問として、今も私に残っていることがあります。

 

それは、先生が生徒に「分かった?」と聞いてはいけないということでした。

 

その理由は、例えば「1+1は2になります。分かった?」と先生が言うと、分からない子が「分からない」と言えなくなるから。

 

でも、「分かった?」と聞いたことに対して、「先生ごめん、分からないから、もう1回言って」と言える子どもを育てることも、先生の仕事だと思ったんです。

 

オブラートに包んだ教育をしたところで、社会に出て活躍できる人間になれるのかと。

 

 

突然の大学退学

大学での授業を受けていくうちに、学校の先生になりたいというよりも、教育心理や障害児教育に関する研究職に就きたいなと思うようになっていました。

 

その矢先、当時バブルがはじけて、バタバタと倒産する会社が増える中、実家の建設業も苦境に立たされてしまったんです。

 

金銭的にも苦しいし、もはや通過点となっていた大学生活は、「大学院に行けないから」と自分の目標も見失い、このまま大学にいても、今の自分には何にもならないと悟った大学3年次に退学という形で終了しました。

 

「今は実家を助けることが一番」という気持ちと、先生になりたい以上に、早く社会に出て社会を見てみたいという気持ちが芽生えて、就職することにしました。

 

 

最初の結婚。そして出産

その就職先で知り合った人と最初の結婚をしました。

 

私が妊娠している頃、彼は「地元に帰る」と言いだして帰ってしまったんです。

 

それで数ヶ月後、私も彼の地元に戻ってみると、彼の親が結婚資金といってくれたお金が全部無くなっていた上に借金だらけになっていました。

 

それから、食事も滅多に取れない日々を過ごすようになりつつも、親に迷惑かけちゃいけないと思って、妊婦な上に慣れない土地でバイトをするようにもなりました。

 

栄養が足りていないせいか、全然お腹が大きくならない時期が続いていました。

 

なんとか出産した後も、借金ばかりが増えていて、ミルクが買えない、おむつが買えない、おっぱいも止まっちゃう、私もご飯が食べれない…という悪循環でした。

 

「もうだめだ」「このままだと死んじゃう」と思って、離婚覚悟で私の実家がある東京に帰って就職をして保育園に子どもを預けました。

 

 

うちの息子、ちょっとおかしい?

もともと、私が障害児の勉強をしていたこともあり、うちの息子がちょっとおかしいな、もしかしたら発達障害、もしくは自閉傾向がある子なんじゃないかなって気付いたのが、1歳ちょっと前ぐらいだったんですよ。

 

そう気付いたきっかけは、話しかけても目が合わなかったり、癇癪が多かったり、発育も遅かったことがあります。だっこもすごく嫌がる子でした。

 

初めての子だったこともあり心配しすぎなのかもと思ったり、「抱っこされるの嫌な子もいるよ」って周りの人から言ってもらっていたのですが、やっぱりちょっとおかしいなというのはずっとありました。

 

また、歩き始めた時も、あそこに行きたいと歩き始めると、机やイスなどがあっても避けずに、目的の場所に向かって一直線に進んでしまうんです。

 

机やイスといった物ならまだいいのかもしれませんが、人の場合でも関係なくぶつかっていってしまう感じでした。

 

 

夫の暴力が息子にまで

そんな中、2人目の子どもも生まれたのですが、旦那さんは育児を一切しませんでした。育児をしないどころか、子どもに暴言を吐いたり、手をあげるようになったんです。

 

例えば、テレビを観ている時に、子どもがテレビの前を横切ったりすることってありますよね?そんな些細なことでも、子どもに向かってすごく怒っていました。

 

「やめて、そんなに怒らないで」と言うと、もちろん私に手をあげてきます。

 

最初のうちは、暴力が私に向けてだけだったので、「私が我慢すれば良いんだ」と我慢していたんですが、だんだんとエスカレートしてきて、私も顔面が腫れるようにまでになっていました。

 

腫れた顔は、「自転車で転んだんです」などと言っていたんですけど、さすがに両親や近所の人、保育園の先生にも気付かれるようになりました。

 

しばらくそんな日が続き、とうとう長男に手を出したんですよね。しかも、長男を掴んでバーンって投げつけて。死ぬんじゃなかろうかと思うぐらい。

 

それを見た時に「もうだめだ」と思って、離婚することを決意しました。

 

 

ママ友の一言で心がボロボロに

離婚したのは、長男が3歳頃でした。当時の長男はこだわりも強いし、パニックもすごいし、人に対する攻撃もすごく強い子だったんです。いわゆる発達障害の特性が目立ち始めました。

 

お友達ともトラブルも3歳ぐらいになってくるとどんどん増えてきました。

 

それと離婚の時期が重なったので、ママ友や保育園の先生に「母子家庭だから教育がなっていない」って散々言われましたね。

 

ましてや、私は23歳で子どもを産んでいたので、「若い親が…」など散々言われて、心身共にボロボロの状態でした。

 

 

SOSを出し、やれることは全部やった

私の祖父は、保育園の先生や区役所の人との繋がりが多い人で、その人たちは私にとってはお兄ちゃん、お姉ちゃんのような存在の人たちでした。

 

なので、私は最初に、そういった人にSOSを出したんです。「どうして良いか分かんない、助けて」って。

 

それで「こういう所があるよ」と、障害児のセンターを紹介していただき、通ったりもしました。

 

また、当時有名だった精神科の教授を訪ねたり、発達障害や療育に関する本を読み漁ったり、ごほうび制や絵カードなど、良いと言われることは全部やりました。

 

 

「みなさんで一緒に育てていただきたいです」

それでも、うまくいく時もあれば、うまくいかない時もありました。

 

そこで、通っていた保育園の先生や保護者の方に、「今更だけど、うちの子には障害がある」とちゃんとお話をした上で、「みなさんで一緒に育てていただきたいです」というお願いを保護者会の時にさせてもらいました。

 

最初、保育園に相談した時、保育園の先生は「そんなこと(障害があることをカミングアウトすること)言わなくて良いよ」って言ってくれたんです。

 

それでもどうしてもお伝えしたかったので、最終的には受け入れてもらい、保護者会で、

 

「今更ながらなんですけど、本当にすみませんでした」

「今後ともどうかお力を貸してください」

 

というお願いをして、保育園生活を何とか終えることができました。

 

 

小学校の普通学級に入学

小学校の入学前検診の時、授業中に座っていられなかったり、暴れたりパニックになる可能性が高いと分かっていたので、「うちの子は障害があるから、特別支援学級が良いです」と言っていました。

 

ただ、就学前検診というきちんとした場での個人面談で、暴れたりする様子が出なかったんです。それで結局、普通学級に通学することになってしまいました。

 

それでも、障害を持っていることには変わりはないので、何かあった時のことをすごく心配していました。

 

「なんとか少人数とかで調整してやります」という話で、校長先生がすごく熱心な方で、担任の先生も真面目な方で色々とやってくださっていましたが、だんだんうちの息子と折り合いがつかなくなっていきました。

 

 

「先生にやられた」

ある日、学童の先生から、

 

「頭を見たら、すごいたんこぶができてて、びっくりして『何があったの?』って聞いたら『先生にやられた』って言うんですけど、お母さんそっちに連絡ないですか」

 

って、仕事場に電話がかかってきたんです。

 

「いや、知らないです」「ちょっと待ってください、そんなにひどいんですか」と聞き返すと、

 

「すごいんですよ。赤黒くなってますよ」って言われて。

 

すぐに学校に電話したら、担任の先生は「知らない」と言うので、会社を早退して、まず学童へ行って状況を確認して、すぐに先生にも話を聞きにいきました。

 

実は当時、1年生の教室が2階にあって、うちの子どもがパニックを起こしたり、授業妨害をしたら、担任の先生が校長室に連れていくというルールみたいなものを作ってもらっていたんです。

 

毎回それを繰り返していくうちに、長男が「校長室に行かない」「頑張るから行きたくない」と言ったんです。

 

赤黒い大きなたんこぶができた日、先生は「そんなこと言ったって、どうせやるでしょ」と、息子を引きずって階段を下ろしてしまったそうなんです。

 

階段の角に、ガンガンガンガン頭をぶつけながら、1階に連れて行ったと。

 

 

隠ぺいしようとした先生への不信

パニックを起こしている人に、感情的に言ったところで、さらにパニックを増幅させるだけで、何の解決にもならないということぐらい先生だったら知ってるはずなのにと…とてもショックな出来事でした。

 

まして、「隠ぺい」しようとした事実は、私にとっても息子にとっても先生への信用を一気に喪失させました。

 

それ以降、特別支援学級に移籍する2年生になるまで、息子はほとんど校長室で、星座の本を読んだり、たまにプリントで勉強したり、校長先生と一緒に給食を食べたり…そんな生活が続きました。

 

 

子育てはずっと一人ぼっちだと思っていた

もともと、すごく負けず嫌いな自分もあったので、否定的なことを言う人たちに対して「なにくそ」と思ったことも正直ありました。

 

私の中では、ずっと子育ては一人ぼっちだと思っていました。誰かに相談をしても、「私の奥の奥までは理解してくれないでしょ」と、やさぐれている部分も私の中にはあったと思います。

 

保護者会で、「うちの子、障害を持っているんです」と最初に言った時は、手も震えてたし、声も震えてたし、今までの気持ちがどっと出てきて、泣いてしまったんです。

 

多分、その時、私の話を聞いていた人は、「何言ってたんだか分からない」という感じだったと思うんです。

 

それでも、「寛乃さんがそういう気持ちで子育てしていたんだということは伝わったよ」って言ってくれる人がいて。

 

その言葉がすごく嬉しくて、自分一人で抱えても、何も解決にならないんだなと思えるようになりました。当時は自殺願望も強かったのですが、そう思えるようになってから、気持ちはすごく楽になりましたね。

 

 

息子は生きることを諦めなかった

今だからこそ、人に恵まれてると言えますけど、どちらかと言うと、障害に対して否定的でネガティブなことを言ってくる人のほうが多かったです。

 

そんな状態だったので、「この子を殺して、自分も死のう」って毎日思ったり、「このままどっか行っちゃいたいな」と、電車に乗りながら、ふと思ってしまうこともありました。

 

そんな私を前向きな方向に動かしてくれたのは、あろうことか私の悩みの種である私の長男です。

 

あの子が生きるということを諦めてなかったんですよね。本当に日々を一生懸命に生きていたんです。

 

他人から見たら、決して良い子ではないし、物分かりの良い子でも、頭の良い子でも、生活能力の高い子でもなかったんです。

 

それでも、あの子自身が毎日を生きることを一回も諦めなかったんですよね。

 

息子が一生懸命に生きてる姿をみて、私自身がハッとさせられたり、助けられていたのかもしれません。

 

続きは第3回へ

 

 

濱島寛乃さん全インタビュー

 

【Part1】障がいをもつ子どもが社会的に自立できるように

【Part2】息子が生きることを諦めなかったから今がある

【Part3】「子どもは親の笑顔を見ていたいから」

 

 

インタビューを受けてくださる方、募集中です

臨床心理士、精神保健福祉士、看護師、保健師、産業カウンセラー、支援機関の職員など、すでに多くの方にインタビューを行っています。ご自身が、有名かどうか、権威かどうかは関係ありません。

 

また、精神疾患などの当事者の方、メンタルヘルスや人間関係でお悩みの方などのインタビューも行っております。

 

これまでの経験・取り組みや、ご自身の想いを読者に届けていただき、Remeのミッションである「こころの専門家へのアクセスの向上」「こころの健康に関するリテラシーの向上」の実現のために、お力をお貸しいただけますと幸いです。

 

 

ご興味をお持ちいただけましたら、下記フォームよりお問い合わせください。24時間以内にご連絡いたします。

 

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