お父さんが笑わない…うつ病が平和な家族を変えた【クローバー さん第2回】
わたしの父は、もともと家族想いの人です。小学校の頃は、休日は頻繁にドライブへ行ったり、年に1度くらいのペースで旅行に連れて行くほど、家族との時間を大切にするやさしい人でした。
わたしはかなりのお父さんっ子で、家族といる時間がなによりも大好きでした。
ですが、15年前、平和な家族の生活が一変してしまいました。
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お父さんが笑わない…
わたしが小学校6年生の頃です。
父は転職をしましたが、新たな職場環境、仕事内容、人間関係で相当悩んでいたようでした。
夏休みのある日、わたしがリビングに向かうと、出勤前の父が今まで見たことのないすごく怖い顔をして、テレビを見ていました。
「なんで笑わないんだろう」
「なんで怒りっぽいんだろう」
「なんで元気ないんだろう」
小学生ながらにも、見たことのない父の姿に違和感を覚えていました。
その1ヶ月後、父は出張先で行方不明になってしまい、その翌日、学校から帰宅すると、母から父がうつ病になったことを告げられました。
うつ病闘病生活のはじまり
そこから、父の闘病生活、そして家族の闘いがはじまりました。
当時は、入院生活も主治医からは提案されたようでした。
しかし結局、最初の数ヶ月だけは、徒歩10分の距離にある祖父母宅(実家)で、療養生活を送ることになりました。
毎日、わたしは父に会いに行きました。
わたしは正直、「うつ病ってなに?」という状態でしたが、「がんばって」と言わないように気をつけていた記憶があります。
大好きな父がどんどん変わっていく
少し良くなったかなという時期もありましたが、それは躁状態でした。
昔のアルバムを開きながら、思い出話を一気に話し出したり、大音量で音楽を聴いたり…。
明らかに変化する父の姿が、当時はとても怖く感じていました。母も、どう接したらいいかわからず、悩んでいました。
この期間で、わたしが一番ショックだったのは、躁状態の父が、ささいなケンカから母へ離婚を切り出したことです。
大好きな父がどんどん変わっていく。
大好きな家族がバラバラになる。
わたしはそんな恐怖で、ひとりこっそり泣いてしまいました。
幸いにも、父が冷静を取り戻したことで、すぐに離婚の話はなくなったのですが、病気によって、平和な家族がさまざまな危機にさらされることになりました。
うつ病の闘病生活で大事なこと
そんな紆余曲折ありながらも、約1年の闘病生活を経て、父は職場復帰することになりました。
発症当初の父の病状で、1年で復帰したのは、いま考えると割と早い回復だったように思います。
それは、祖父母宅での療養など、周りの人たちに支えられたことが、家族を大事にする父にとって、なによりもエネルギーになったのかなと感じます。
そのときのその人に合った療養生活というのが、きっとあるのだろうと思います。
また、母も、「あのとき、自分一人だけだったら絶対に共倒れだった」とよく言っています。
こうした闘病生活はレアケースかもしれません。
しかし、家族だけで孤立しないことは、病気と闘ううえで本人も家族も必要だと思います。
闘病中にはいろんな出来事があり、支える人の精神面も不安定になるはずですので、家族が理解し、協力し合うことが乗り切る上で大事なんだろうなと感じています。
ペンネーム:クローバーさん
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- 本記事は2017年6月12日に公開されました。現在の状況とは異なる可能性があることをご了承ください。