28歳で大うつ病と診断。料理人のキャリアが一転し何もかも失った【全3回】

2018.06.30公開 2018.10.29更新

現在43歳。20歳から料理人として働き出し、28歳で大うつ病、30歳で双極性障害と診断されました。

 

これまで、退職、離婚、2度の自己破産、数回の自殺未遂を経験してきました。

 

2年程前から徐々に安定し、今の仕事、生活、今後の人生設計も、発病前とは全く異なります。

 

今回は連載を通じて、ここまでに至る心境の変化やこれからのことをお伝えできればと思います。

 

 

新聞奨学生をしながら予備校へ

国立大学受験に失敗し、新聞奨学生をしながら、予備校に通いました。

 

幼い頃から、消極的で、口数が少なく友達の少なかった私は、新聞配達所の人間関係に全くなじめず、睡眠不足と疲れで全く勉強に手が付かない状態が続いていました。

 

元来の怠け者体質が現れたのか、現実逃避ばかりで、配達のスーパーカブに乗りながら、

 

「80Km/hの速度で転べば死ねるかな」

 

などと考えるばかりでした。

 

なんとか現役時代より偏差値が15ほど下がった大学に入学しましたが、抜け殻状態になり、大学生活も無気力でした。

 

 

料理人になる夢を思い出して

大学1年の夏に「このままではいけない」と思い、今後の人生を考えた時に、幼い頃からの料理人になる夢を思い出し、料理の専門学校への入学を決意し大学を中退しました。

 

東北の片田舎の中学時代は、学年の成績は常にトップクラスで、高校は進学校に進学していましたが、あまり目的意識もなく、周りになじめずにおりました。

 

田舎なので、片道1時間の通学電車の中には、周りに同級生しかいないにも関わらず誰とも話さず一人。教室でも一人。

 

「いい大学に入ればなんとかなるかな」と軽い気持ちでいました。勉強に身が入らず、いつしか夢も忘れていました。

 

専門学校の学費を工面するため、1年間故郷にて、昼は塾講師、夜は工場で働き入学しました。

 

東京の専門学校時代は、家賃3万円の三畳のアパートに住み、レストランでアルバイトをしながら学生生活を送り、充実した毎日でした。

 

専門学校卒業後は、真面目に働いたことだけが評価され、アルバイト先のレストランにそのまま就職し、念願の料理人生活が始まりました。

 

料理人生活2年目に潰瘍性大腸炎にかかり、1年ほど料理人を離れていた時期もありましたが、その後も職場をかえながらもキャリアを重ねました。

 

 

憧れのフランス料理店で働く

25歳になり、当時働いていたデパートのレストラン街の洋食店の閉店が決まった際、料理長の推薦で系列のフランス料理店への異動が決まりました。

 

この料理店は、日本の高級フランス料理店の草分けともいえる存在でした。

 

そのフランス人料理長の料理に強い憧れを抱いていた私は天にも舞い上がる気持ちでした。

 

後に推薦して頂いた洋食店の料理長に推薦理由を伺ったところ、「真面目だし、賄いが美味しかったから」とのことでした。

 

今もそうですが、この「真面目」という周囲の評価が私は恥ずかしいです。

 

能力的に誇れることがないので、ただひたすら突っ走るしか方法が分かりません。真面目イコール無能と言われているも同然と思ってしまうのです。

 

 

楽しくて仕方なかった

高級フランス料理店へ異動後の生活は一変しました。

 

始発で家を出て、終電で帰宅する毎日。

 

しかし、夢にまでも見た厨房で、フランス語が飛び交い、手に触れる食材は最高級のものばかり。

 

凄腕の先輩方の所作に触れられ、毎日が刺激に満ちており、仕事が楽しくて仕方ありませんでした。

 

仕事場では、私だけが渡仏経験も高級店での経験もありません。

 

仕事内容も本では知っていたものの、初めて行うことばかりでした。明らかに他の方々とは腕も劣ります。

 

毎日必死に食らいついていました。

 

秋から冬になると、当時、日本では珍しかったジビエが大量に入荷します。

 

丸ごとそのままの姿の野ウサギ、野鴨、ベキャスという小鳥。それらの皮をはぎ、羽をむしることから始まる調理はフランス料理の真髄を学べました。

 

看板料理のひとつであるトリュフのラビオリの調理を全て任され、大量のトリュフのむせかえるような芳香に囲まれながらの作業に幸せを感じました。

 

そんな辛くとも充実した毎日を過ごしていた私でしたが、鬱の陰は知らず知らずの内に近づいていたのでした。

 

 

毎日の生活に異変が

憧れのフランス料理店の調理に携わり2年が過ぎる頃、毎日の生活に異変が出始めました。

 

朝の洗顔後に水道の蛇口を閉め忘れる…

鍵をドアノブに刺したまま出かける…

家から最寄りの駅への自転車のかごに荷物を全部置きっぱなしにする…などです。

 

初めは「疲れがたまっているのかな」くらいにしか感じていませんでした。

 

しかし、帰りの1時間の電車通勤にも耐えられず、勤務先の近くのビジネスホテルに泊まることが頻発していきました。

 

当時、同居していた妻とは会話が殆どなくなりました。

 

それでもなお仕事に邁進していましたが、勤務中にふと帰りたい衝動にかられ、そこで初めて自分の異変に気づきました。

 

 

仕事ができなくなる恐怖心

「このままでは仕事が出来なくなるのではないか」との恐怖心にかられた私は、これは精神がおかしいと思い、昼休みに職場近くの精神科クリニックを受診しました。

 

そのクリニックで私は先ほどの数々の異変を伝え、

 

「なんとしてでも仕事を続けたいので、薬でも何でも治療してほしい」

 

と訴えました。

 

その医師は初見で大鬱病との診断を下し、ドグマチールを処方されました。

 

「目つきが変わった。怖い」

「自分のことばかり考えていて、以前のやさしさが全くなくなった」

 

と、その頃、ほとんど会話の無かった妻にも異変を指摘されました。

 

それでもなお、私はようやく軌道に乗りかけていた仕事や職場を「離してなるものか」としか考えていませんでした。

 

 

生活がめちゃくちゃに

妻との関係も悪化し、仕事後キャバクラ等で飲み明かして殆ど寝ずに出勤したり、たまの休日には風俗に通うようになり散財しました。

 

20万円消費者金融から借り、1回で高級ソープランドに使うことをし、借金も増えました。

 

今考えると、めちゃくちゃな生活です。

 

常々、仕事の日は3時間程度の睡眠でしたが、酒に頼らないと眠れなくなり、酒量も増えました。

 

ただ、仕事への情熱は自分では衰えていないと考えていましたので、変わっていく自分自身に恐怖を感じて他力本願で病院を転々としていました。

 

 

病に苦しむ日々のはじまり

診察の際には、「体が動かず、自分はおかしいのは自覚しているが、仕事だけは続けたい」と訴え続け、ある病院では当時は鬱病にも適用された薬を処方されました。

 

その薬を服用すると、体中に力がみなぎるように感じ、職場の方々からも、最近、様子が変だったが、また元のエネルギッシュなあなたに戻ったねといわれました。

 

以前と変わらず仕事が出来る喜びを感じでいました。

 

処方された薬を服用してから一ヶ月ほどのある日突然、朝、目がさめると意識はあるのに、全く布団から起きあがれません。

 

初めて仕事を休みました。

 

妻に介助され、近くの総合病院の精神科を受診すると、思ってもいないことを告げられました。

 

ここから、お金も家庭も、そして一番好きな仕事も何もかも失い、病に苦しむ10年間が始まりました。

 

>>小さなハートマークに心躍った…何でも話ができた最初で最後の人へ

 

【書いた人】水樹 さん

 

水樹さんの連載一覧

【Part 1】28歳で大うつ病と診断。料理人のキャリアが一転し何もかも失った

【Part 2】小さなハートマークに心躍った…何でも話ができた最初で最後の人へ

【Part 3】「悪くない、まあまあ」なら最高。双極性障害との私なりの付き合い方

 

 

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  • 本記事は2018年6月30日に公開されました。現在の状況とは異なる可能性があることをご了承ください。