小さなハートマークに心躍った…何でも話ができた最初で最後の人へ【水樹さん】

2018.07.09公開 2018.07.13更新
 
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総合病院の待合室で、これまでの通院・服薬歴・症状等を書き込み、2時間後、ようやく診察室へ。

 

すると、女性医師は私の顔も見ずに、いきなり「今、病室が一杯だからこの2つの病院から選んで」と伝えてきた。

 

 

女性医師の「無理」

私は何のことか意味が分からず、「どういうことですか」と言うやいなや、

 

「ここは症状の軽い人が大半なの。あなたのような人は専門の病院で診てもらってください」。

 

「まだ、何も診察を受けていないじゃないですか」と私が言うと、

 

「服薬歴、症状から今すぐに入院加療が必要なのは明らかです。後は入院先の医師から診察を受けてください。今ベットが空いているか問い合わせます。」

 

「入院はできません。仕事がありますから」とさらに私が言えば、

 

「何を言っているの。無理に決まっている」

 

私は、仕事が出来なくなる現実の恐怖と、女性医師の「無理」と言う言葉に対する怒りの感情がごちゃ混ぜになり、錯乱状態に陥った。

 

 

閉鎖病棟での入院

ふと気づくと、ベットに体を拘束され、周りを見渡すと、丸見えの便器だけがある個室に寝かされていた。

 

後になって、付き添いの妻から聞くと、総合病院で女性医師の言葉を聞いたとたん、医師の机を蹴り飛ばし、大声をあげて暴れ出し、取り押さえられて、精神病院に連れてこられたとのこと。

 

3ヶ月間に渡る初めての閉鎖病棟での入院が始まった。

 

初めの1ヶ月間は何の感情もなく、ただひたすら眠りつづけた。

 

次に、無力感におそわれ、泣いてばかりだった。

 

2ヶ月を過ぎ、徐々に落ち着きを取り戻すと、恐ろしい現実を目の当たりにして消えてしまいたくなった。

 

 

ほっとする自分を責める

仕事は休職扱いになっていた。

 

医師からも言われたが、自分自身も復職は出来ないことは分かっていた。

 

あれほど身を粉にして、一心不乱に心血を注いできた職場に戻れない絶望は大きかったが、一方でどこかほっとした自分がいた。

 

だが、そのほっとした自分の感情を責める気持ちもあった。

 

当時、まだ双極性障害との診断はついてなく、「重度の鬱病」との診断であった。

 

入院は3ヶ月間が限度で退院となるが、長期にわたる通院での治療、変化があればすぐに再入院が必要とのことだった。

 

薬は3種類の抗鬱剤や睡眠導入剤など大量だった。

 

退院が近づくにつれて、端からも自分自身でも正常に戻ってきたように思えた。

 

 

300万円の借金と自己破産

すると、もう一つの恐怖、借金問題が浮上した。

 

問題行動が見え始めてから入院するまでの半年間で、引っ越し代を含め、風俗や浪費などで300万円程の借金をした。

 

入院後も月々の返済は傷病手当金でまかなって滞りなかったが、退院後、退職すれば無収入になる。

 

元気を取り戻しつつあると、仕事がなくなる恐怖、借金の恐怖が襲いかかってきた。

 

誰にも相談できなかったが、ある夜ふと、いのちの電話にかけ、借金のことを相談すると、自己破産という制度があること。

 

無料で法テラスで相談できると教えていただけた。

 

病院から外出許可を受け、法テラスで相談すると、担当弁護士からすぐに自己破産の手続きを勧められた。

 

病気も理由であるので、裁判所に出廷する必要もないとのこと。これでひとまず落ち着けた。

 

 

妻から切り出された離婚

まだ、鬱状態ではあったが退院できた。だが、課題は山積みであった。

 

退職後の収入、月12万円の家賃、妻との結婚生活…。

 

入院中は献身的に看病してくれた妻であったが、振り返ると、この何年間かは仕事や自分中心で、妻をないがしろにしてきた。

 

退院し、3ヶ月ぶりに妻との自宅に戻った。

 

その夜、妻から今後の生活について話し合いたいと言われた。

 

入院中は刺激を避けるため、あえて話題にしなかったということだ。

 

話し合いの初めに妻から離婚を切り出された。

 

 

尽くしてくれた妻への思い

病気になった私に対してまだ愛情はあるが、借金が怖いので、もう家族ではいたくないと言われた。

 

当然のことだ。妻に対して申し訳ない気持ちで一杯だった。

 

仕事中心の生活も、異常行動が出てきても、入院しても、一度もグチや責められたことはなかった。

 

むしろ、自分の生活を犠牲にしても尽くしてくれていた。

 

一方、私が妻に対して思いやったことは皆無だった。二つ返事で妻からの申し入れを受け入れた。

 

 

妻との出会いのきっかけ

妻との出会いは、22歳の時、仕事場のレストランに彼女が客席のピアノ奏者として来た際だ。

 

いつも笑顔で私の作るまかないを「美味しい、美味しい」と食べてくれた。いつしか惹かれていたが、告白する勇気はなかった。

 

ある日、いつものフランスパンの買い出しに出かけると、店先に彼女が立っていた。

 

そこで手紙を渡された。

 

今度、食事に連れていって欲しいと書いてあった。

 

文章の最後にあった、小さなハートマークに心躍った。

 

 

黒髪の彼女はまぶしかった

勉強のため、月に2回はレストランで食事していたが、いつも一人だった。

 

今まで、女性と付き合うことはおろか、面と向かって話をしたこともあまりなかった。

 

華やかな雰囲気のため、一人では行きづらかった都内のフランス料理店に彼女を誘った。

 

少し背が高く、肌が白くて、長い黒髪の彼女はまぶしかった。

 

デートのテクニックもない私は、食事中に出てきた料理の調理の難しい点、歴史的成り立ちを一生懸命話した。

 

いつしか高級レストランで働きたい夢をとうとうと語った。

 

それをニコニコと聞いてくれて、料理も好き嫌いなく食べてくれる彼女をますます好きになった。

 

最後に、なぜ、手紙をくれたのか聞くと、「だって、勇気ないでしょ」と一言。すべてお見通しだった。

 

 

何でも話ができる最初で最後の人だった

デートを重ね、程なく彼女の部屋で同棲を始めた私たちは、付き合って半年で結婚した。

 

いつも私を立て、夢を応援してくれていた。

 

何でも話ができる最初で最後の人だった。

 

ワンルームにグランドピアノがある部屋で、ピアノの下に布団を敷いての生活でも夢のようだった。

 

その最愛の人を私は、私のせいで傷つけ、幸せにできなかった。

 

ピアノのなくなった部屋はがらんとして、いやに広く感じた。

 

退職を済ませ、自己破産完了の書類を受け取った私は、福島の実家に戻った。

 

 

実家に戻り、鬱と躁に苦しむ

実家に戻った私を両親は何も言わないで受け入れてくれた。

 

鬱状態がひどくなり、無気力になっていった。

 

地元で通院していた精神科の医師は効果がないとみると、次々に薬剤を変え、量を増やしていった。

 

いきなり躁状態に陥った私は、地元で喫茶店を営んでいた親戚の店で、ギャラリーを開くことを思いついた。

 

自動車で、日本各地の陶芸の窯元、ガラス細工職人、民芸雑貨店を周り、一年先までの展示スケジュールを組み、勝手に進めていった。

 

そして、そこでケーキを出すと決め、何種類ものケーキをつくり、親戚の喫茶店に卸した。

 

初めは活動的になり、病気がよくなったと思った周りの方々も喜んでいた。

 

 

周囲が「おかしい」と感じ始める

しかし、

 

「いかに自分がすばらしいレストランで働いていたか」

「いかに私はすぐれた人間でこのギャラリーの企画がすごいか」

 

などを、元々無口であった私が多弁に語るのを聞き、おかしいと感じ始め、ギャラリーの企画を止めるよう諭してきた。

 

話し合いの席で全く理解されていないと感じ、大声を出して暴れ飛び出し、自動車に乗って何時間か山道を猛スピードで走った。

 

むき出しの単線の線路が見える場所につき、私はその線路に寝ころんだ。

 

夕方5時頃であったが、電車の本数が少なく、30分程寝ていたが電車は一本も通らなかった。地元の人に発見され、両親に引き渡された。

 

その夜、入院した。

 

次の日の早朝、興奮の収まらない私はほうきの柄を手に持ち、病室の窓ガラスを片っ端から割り始めた。すぐに取り押さえられ、拘束された。

 

当時の事実は覚えているが、そのときの自分自身の感情がどうであったかはあまり覚えていない。

 

それでも両親は何も言わなかった。

 

 

夜逃げ。そしてホームレス

小さな田舎町であったため、その話は周りに広まり、両親の営んでいた飲食店にも影響が出始めていた。

 

強制退院となり、しばらくは引きこもり状態であった。

 

私の行動に疲れ、飲食店の経営も思わしくなくなってきた両親は、夜逃げを計画した。

 

東京に住む弟がレンタカーを借り、家には殆どの荷物を残し、一家で東京に出た。

 

東京の弟の部屋に身を寄せた両親と私であったが、程なく、両親や弟との折り合いが悪くなった私は、家を飛び出た。

 

あてもなく、僅かばかりのお金しかない私はホームレスとなった。

 

 

新宿中央公園の炊き出し

新宿駅や歌舞伎町で一日過ごし、コンビニのおにぎりを食べ、たまに漫画喫茶のシャワーを浴びた。

 

その頃の精神状態は、無気力で廃人同様だったと思う。あまり記憶がない。

 

そのような状態が一ヶ月ほど過ぎたある日、初めて新宿中央公園の炊き出しに並んだ。

 

温かい豚汁とおにぎりをほおばっていると、ボランティアの方が近づき笑顔で、

 

「若いのにどうしたの。困っていることはない?何でも話して」

 

と声をかけてきた。

 

久しぶりに話かけられ、最初はおどおどしていたが、長い時間かけて今までのことを話した。

 

話し終えると、心の中のどんよりとしたものが晴れていく感じがした。

 

 

元妻への久し振りの電話

その夜、少し頭がクリアになり、これからのことを考えてみた。

 

「このままではだめだ。」

「まずは治療を受けないといけない。」

 

両親に合わす顔もない。知り合いもいない。元妻が頭に浮かんだ。

 

だが、こんな格好をみせられない。恥ずかしい。それに、もう家族ではない。

 

しかし頼れる人は元妻しかいなかった。元妻に久し振りに電話をした。

 

元妻からの着信を何度か拒否していたこともあり、元妻はこんな状況の自分でも、

 

「声を聞けてほっとした」

「ずっと心配していた」

「会いたい」

 

と言ってくれた。

 

元妻に再会すると、体のことを気遣ってくれ、病院へ連れていってくれた。

 

以前、入院していた病院の医師に相談すると、病院で保護する必要があると再入院を勧められた。

 

病院の相談員のおかげもあり、再入院が決まった。

 

 

双極性障害Ⅰ型の治療が始まる

入院後、双極性障害Ⅰ型と診断され、投薬中心の治療となった。

 

3ヶ月の入院期間が過ぎ、幾分落ち着いてきた。

 

退院後、元妻のアパートに同居させてもらい、仕事探しをした。

 

「無理せずに軽いアルバイトから始めたら」との元妻の助言もあったが、一刻も早く普通の生活を取り戻したいと焦った私は、持ち帰り寿司店の正社員に就職した。

 

初めのうちは、調理経験のおかげで、同期社員の中でも成績は優秀であった。

 

2ヶ月後には繁盛している店舗の店長代理となり、残業もこなした。

 

当時はまだ、双極性障害の知識に乏しかったため、完全に回復したと錯覚し、通院は続いていたが、動きがにぶくなるという理由で、服薬を勝手にやめた。

 

 

元妻の言葉と自分勝手な思い

就職して3ヶ月が経つ頃、元妻から、

 

「また病気になる前のあなたに戻りつつある。仕事を辞めて」

 

と言われた。バカな私は、元妻を楽にさせてやりたい一心で働いているのに、理解されないという自分勝手な思いが募った。

 

アパートで一人でいるときに、衝動的に、飲まずにとっておいた薬をがぶ飲みした。その後、不安になって自ら119番通報した。

 

病院で緊急処置を受け、朦朧とする意識の中、黒い炭のような液体を何度も無理矢理飲まされ、吐くことを繰り返された。

 

とても辛く、涙が出た。

 

ICUに入り、両親、弟が呼ばれ、今夜が山だということ。もし、峠を越えたとしても、人工透析などの後遺症が残る可能性が高いと告げられたとのことだ。

 

幸いにも、一命は取り留め、後遺症も全く出なかった。

 

病院で両親と元妻が話し合い、私は両親に引き取られた。

 

またしても、周りの人々を裏切り、不幸にしてしまった。

 

 

祖母との思い出と母への思い

私は幼い頃から中学生まで、共働きの両親に代わり、同居していた母方の祖母に育てられた。

 

祖母は、母が小学生の頃に離婚し、上の2人の兄弟は成人して独立していたため、母一人子一人の生活をしていた。

 

母によると、辛い子供時代を過ごしたそうだ。

 

私が、中学2年の頃、離婚していた祖父母が復縁し、私たちから離れた。

 

私も子供だったので、詳しいいきさつは分からないが、祖母を取られたようで悲しかった。その後も交流は続いた。

 

高校1年の夏、夏休みで学校の夏期講習にきていた私は、授業後に担任から、母から連絡がきて家に連絡するようい言われた。

 

なにかと思い、連絡すると、思いもかけない事実を告げられた。

 

祖母が自殺したと。

 

頭が真っ白になった。前日にも祖母に会っていた。訳が分からなくなり、泣き続けた。

 

もし、私が死んだら、母は2人も自殺でなくすことになる。

 

母をこれ以上悲しませたくない。もうバカなことはよそうと心に決めた。

 

 

働いていたフランス料理店が三つ星に

一年ぶりに両親と再会し、同居を始めた。

 

久しぶりに会った両親はひどく痩せてやつれており、母は飲食店の洗い場とホテルの清掃を掛け持ちし、父は深夜のそば店での調理をしていた。

 

2人で何とか生活できる基盤を整えていた。

 

その後、私は体調の波があり、一ヶ月の10日ほどしか働けず、体調の良い時に日雇いのバイトをする生活が一年程続いた。

 

徐々に体調も回復し始め、気分転換に一ヶ月間住み込みで、高原のレストランの調理のアルバイトを始めた。

 

なんとか勤められ、働く勇気がでてきた。

 

昼休み、社員食堂のテレビが、東京で初めてミシュランガイドが発行され、働いていたフランス料理店が三つ星に輝いたニュースを流していた。

 

それを聞いて少し悔しかったが、今は別世界にいると自分を落ち着かせた。

 

 

自分を常に追い込んでしまう

東京に戻り、オーガニックカフェの料理長として就職した。

 

今度こそ健康的な仕事をしたいと考えていたが、徐々に仕事量が増加していった。

 

生半可知識や経験があるので、アイデアはすぐに出てくる。

 

妥協しない性格なので、自分の理想の料理を追求するため勉強し、試したくなる。

 

最初は評価もあがるのだが、手抜きを知らないので、オーバーワークとなる。

 

友人や趣味もないので、毎日料理のことだけを考える。

 

社会人になってから料理しかしてこなかったので、息抜きも知らず、視野の狭い人間になっていた。

 

今考えると、私の致命的な欠点は、この視野の狭さにあると思う。

 

友人のいない人、趣味のない人は世の中にたくさんいる。

 

私の特殊性を生み出したのは、一つを目指すとそれしか見えなくなり、一直線に突き進んでしまう点。

 

それと、常に辛い状況にいないと不安になる点である。

 

「負荷をかけることが仕事」と思ってしまい、自分を常に追い込んでしまう。

 

今回の異変は突然、しかも次に進もうとしている時に起こった。

 

 

「今すぐ入院させてくれ」

就職から一年を過ぎ、仕事も順調と思われ、そろそろ実家から一人暮らしをしようと都心のアパートを契約した。

 

いざ、契約金を不動産屋に振り込もうとしたところ、銀行の残高が全くない。

 

パニックになった私は、通院していた病院とは別の精神病院に飛び込み、今すぐ入院させてくれと懇願した。

 

通常は予約制で、入院も一ヶ月程度待たないといけなかったのだが、私の様子を診た医師が緊急入院の手配をしてくれた。

 

実際は預金残高はあったのだが、本当に突然パニックになった。

 

自分自身では、少し疲れがある程度だったのだが、病気の私の身にはきつかったのだろう。

 

3ヶ月間入院したのだが、以前の入院生活よりも少し症状が軽かったため、自分を見つめ直すことや、新しい発見ができた。

 

以前の入院生活ではテレビはおろか、ラジオ、本を読むことすらできなかったが、今回はテレビやラジオを聴くことができた。

 

 

初めて趣味ができた

ある夜、FMラジオを聴いていると、流れてきた一曲になぜか心を奪われた。

 

いまでもその状況をはっきりおぼえているが、その歌手は水樹奈々さんで、翌日の西武ドームでのライブを記念した特別番組であった。

 

今まで、全く音楽に興味がなかったが、水樹さんの伸びやかな高音や、アップテンポの曲調に生きる勇気をもらえた。

 

元気になって来年また、西武ドームでライブがあったら参加しようと決めた。

 

実際、翌年同じ西武ドームでライブがあり、参加することができた。

 

そこから、猛烈なファンになり、ファンクラブに入会し、現在にいたるまで、少なくとも年に2回はライブや、水樹奈々さん主演のミュージカル等も欠かさずに観劇している。

 

私にとって初めての趣味ができた。

 

初めのうちはライブに参加すると、軽躁状態になってしまうこともあったが、笑われると思うが私の生きる意味の一つとなっている。

 

 

みんな必死に生きている

治療方針の変化も私に良い面をもたらした。

 

従来の投薬に加え、新たな薬が追加された。それを処方されてから、常に頭に霧がかかっているような状態から少し改善された。

 

今までとは違い、他の入院患者さんとも交流を持てた。

 

覚醒剤の影響でろれつが回らないが、いつも穏やかで優しい印象のDさんは元暴力団員で、一緒に入浴すると、背中一面の鯉の滝登りの入れ墨が見事で、芸術作品のようだった。

 

喫煙室で一緒だったNさんは、よく病室で暴れていたが、元大手通信企業の社員で、フランス料理の食べ歩きが趣味だったらしく、レストラン談義で花が咲いた。

 

私と話しをしているときだけはとても穏やかな笑顔が印象的だった。

 

年輩の女性のEさんは主治医の先生と結婚している妄想らしく、何かの輪っかを左手の薬指にはめ、いつも笑顔で先生との結婚生活の妄想話を聞かせてくれた。

 

10代のAくんは、自分は火星人で火星から地球にきた目的を楽しそうに話してくれ、顔を合わす度に、私に何星人なのか聞いてきた。

 

みんな必死に生きているんだなぁと感じた。

 

今までは、自分が重度の精神病患者でありながら、受け入れることが出来なく、まわりの患者たちをバカにしていた。

 

 

開き直って気楽に生きていこう

今回はさすがに、もう普通の生活には戻れないと悟り、絶望感はあったが、今後の生活を考えなければと思うようになっていった。

 

人生とは、一般的に挫折の繰り返しであり、世間一般いわれる成功を勝ち取るのは一握りの人だけである。

 

私は、働いて出世したい、名誉を得たい。もっとお金を稼いで親、家族を楽にしてやりたい。そうなることが幸せで、人の生きる道であると思ってきた。

 

そうなれない自分を恨み、恥ずかしいと思い、肉親にすらも弱い自分を隠そうとしてきた。

 

自分が置かれている状況を客観的にみると、自分は最底辺の人間だ。バカでどうしようもない人間だ。

 

もう料理はやめよう。開き直って気楽に生きていこうと決めた。

 

 

退院後の穏やかな日々が一転

退院後、アルバイトを転々とした後、テレホンオペレーターの派遣社員となった。

 

離職率の高い職場であったが、自分はなんとか続けていた。

 

時給も比較的高く、休みも自由にとれた。一ヶ月で2日位、気分がのらない日があったが、体調不良を理由として休みながら働けていた。

 

趣味に生きようと決めた私は、ライブ参戦や一人旅行をたまに行って、穏やかな日々を過ごしていた。

 

ある日、伊勢神宮の参拝旅行の途中、名古屋の歓楽街で一軒のキャバクラに入った。

 

軽く一杯位飲んで帰ろうと思っていたが、初めについたキャバ嬢と話がとても合い、連絡先を交換し、今度好きな歌手のライブに行こうと約束した。

 

一ヶ月後、埼玉のライブを一緒に鑑賞し、意気投合した私たちは、次の日も休みだったため、一緒に泊まり、ディズニーシーで遊んだ。

 

とても楽しく、その娘に夢中になってしまった。

 

その後、月に二度は新幹線で名古屋に向かい、高級レストランでの食事後に同伴出勤しキャバクラで飲んだり、ブランド物のプレゼントを送ったり、一緒に旅行をする日々が半年程続いた。

 

しかし、ある日突然、鬱状態に陥り、仕事に行けなくなった。

 

残ったのはまたしても200万円程の借金だった。一ヶ月間の入院後、二度目の自己破産を申請した。

 

 

様々な治療との出会い

退院後、内観療法を受ける機会があった。

 

これは、一週間、1日10時間以上、部屋の角のついたての陰に正座をして、幼い頃から現在までの母や他人についた嘘を思いだし、2時間毎に所長に告白するというものだ。

 

罪悪感にはさいなまれるのだが、改めて自分の愚かさを認識し頭の中の整理ができ、終わって外に出ると、すっきりした気持ちになり、一定の効果があったように思われた。

 

これまでも、催眠療法、霊能師、あらゆる新興宗教を訪れたが、どれも私には合わなかった。

 

また、TMS治療も受けた。これは脳に直接1日1時間程度、磁気の刺激を与える治療を一ヶ月行うものだが、これにより、自分の状態が改善したと感じた。

 

 

自分に向き合い、穏やかな今がある

薬の追加、また内観療法、TMS治療等により、頭の中のクリアな感覚が増えていき、心境の変化も現れた。

 

一時期は極端な享楽主義に走ったこともあったが、現在は穏やか気持ちを保つことが多くなっている。

 

ここまで書き出しても改めて思うのだが、私は今まで多くの方に迷惑をかけてきた最低の人間である。

 

その事実に目を背けて生活していたが、認識しないとだめだ。

 

認識したからといって、すぐに改善できるほど私は人間が出来ていない。

 

だが、最低な人間が体中に鎧をつけ、いかにも私は普通の人間ですよ、善良ですよと、自分にも他人にも偽って生きることほど愚かなことはない。

 

親も他人も、どんなに心配してやさしい言葉をかけてくれる人も、医者もカウンセラーも、直接自分の脳に命令をくだすことはできない。

 

異常行動も自分が引き起こしている。

 

自分に向き合うことで、穏やかな今がある。

 

すべては自分の意志。今はそのように感じている。

 

>>「悪くない、まあまあ」なら最高。双極性障害との私なりの付き合い方

 

【書いた人】水樹 さん

 

水樹さんの連載一覧

【Part 1】28歳で大うつ病と診断。料理人のキャリアが一転し何もかも失った

【Part 2】小さなハートマークに心躍った…何でも話ができた最初で最後の人へ

【Part 3】「悪くない、まあまあ」なら最高。双極性障害との私なりの付き合い方

 

 

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