うつ病で好きだった仕事を辞めた後、人生を前に進めるためにやってきたこと
うつ病で仕事を辞めた後、どんな人生になってしまうのだろう…
そのような不安や心配がさらに絶望感を大きくさせることは想像に難くありません。
今回のインタビューは、ピアサポートやメンタルヘルスの啓発活動にも取り組む、黒川常治さん。
黒川さんもかつて過酷な仕事をこなしつつも、心身ともに悲鳴を上げてうつ病で休職・退職を余儀なくされた一人。
うつ病で退職後の人生をどのようにとらえ、どのようにして過ごしてきたのか。
そのリアルな実体験を今回のインタビューでシェアしていただきました。
目次
子供の頃からデザインが好き
4人姉兄(きょうだい)で育って、貧しかったけどにぎやかな家族でした。
中1の時に父が他界をして、それからは母子家庭で育ちました。
私は音楽とデザインが好きだったので、高校を卒業してからはデザインの専門学校に行って、「早く働いて一人暮らしをしたい」って思っていましたね。
その後、グラフィックデザイナーになって、DHCという会社に所属していたことがあったので、DHCのロゴマークや今売ってるサプリメントのパッケージの元のデザインにも携わりました。
高校の時、デザイナーを目指している友だちは美術大学を目指していましたが、僕はお金もありませんでしたし、デッサンが苦手だったこともあって大学は考えていませんでした。
就職する上で良さそうなところを探している中で、東京デザイナー学院という専門学校に入りました。
素敵な先生がたくさんいました。
タイポグラフィーに関して言えば、「渡る世間は鬼ばかり」のタイトル文字を書かれていた、篠原榮太先生という方がいらっしゃったり。
デザインのスキルに関しては、専門学校で叩き込まれたというよりも、レタリング辞典を読みふけっていた小学校の時から少しずつ吸収してきた感じです。
卒業制作の中間報告的なプレゼンでも、
「君、面白がってやってるよね、楽しいでしょ」
「じゃあ、そのままやりなさい」
という言葉をもらえ、ちょっとした賞もいただけました。
先生が言ってくれた、「楽しんでやってるんだったら、そのままやりなさい」という言葉が原動力になりましたし、自分にとって一番印象的だった言葉です。
そもそも「出発点が何なのか」ということが大事だと実感させられました。
「先生の合格点を取りたい」とかだったら、何かつまんないものを作っていたかもしれません。
順調だったデザイナーキャリア
気になっていた小さなデザイン会社に内定をもらいました。
これから広告業界の過酷労働を目の当たりすることになるとは、もちろん思いもしませんでした。
1社目では新しいクライアントを担当させてもらえたり、仕事には満足していましたが、少ない給料にはちょっと不満でした。
少ないのは良いんですけど、やったことに対する報酬に納得できなくて。
それで1年目にして転職をしました。
転職先ではデザインのことだけではなく、「デザイナーとしてどうあるべきか」「チームとしてどうやるか」とか、お酒の飲み方もそうですけど、いろんなことを教わりましたね。
そして、僕が一番年下だけどアートディレクターに抜擢してくれたのがすごくうれしくて。
仕事全体を見渡すことができたので、いろんなことを学ぶことができ、デザイナーとしてさらに成長を求めて、次のキャリアを考えるようになり、DHCという会社に転職をしました。
DHCって「大学翻訳センター」の略で、もともとは翻訳の会社なんです。
翻訳以外にも、オリーブオイルや基礎化粧品を扱うようになってきて、これから売り出す健康食品のパッケージなどのデザインに携わりました。
DHCでも、だんだんと大きい仕事もさせてもらうようになりました。その頃、仕事が17時あがりだったんでですが、むしろ僕は「もっと仕事がしたい」っていう気持ちが強くて。
当時の僕にしてはハングリー精神がいっぱいで、それで27歳のときに別のデザイン会社に転職することにしたんです。
広告業界の過酷労働を目のあたりに
転職先のデザイン会社では、広告だけではなく、編集デザインもやっていました。
僕が主に担当していたクライアントさんが、雑誌広告をいっぺんに12誌出すところでした。
実はそれがいわくつきのプロジェクトで。後から聞かされたんですけど、いろんなデザイン会社から断られて回って来た仕事だったんです。
12誌分の広告があるとしても、商品のイメージを統一させるために1つのデザインを作って、それを12誌に展開するというやり方がオーソドックスだと思います。
ただ、そのクライアントさんは、12誌全部違うアプローチ、デザインという方針でした。しかも入稿してからのプランやデザイン変更が日常茶飯事という状態。
広告の根幹となるコンセプトが途中で変わったりもして、本当に大変な思いをしました。
念校といって、「これから先は変更できません」というタイミングにたどり着くまでに、どんでん返しがいっぱいあるわけですね。
そのどんでん返しを毎月12誌、全部やりました。
「今日はもう連絡ありません。帰って良いです」って言われても、「もう終電終わってるよ」という日々が続いていましたね。
それでも毎回ちゃんと12誌分を仕上げて、「やっと1ヶ月終わったね」って一息ついた頃に、また次月の12誌が始まるんです。
僕とコピーライターの2人だけでやっていたので、「これじゃ体がもたない」と言ってはいましたが、人員を増やしてくれることはなかったですね。
当時、ポケットベルを持たされていたので、家に帰れてもポケットベルで呼び出されたりすることもあって。だんだん眠り方を忘れていきました。
実際、カプセルホテルで寝たり、あとは会社の広いスペースで寝たりすることが多かったです。
そのコピーライターと2人で言っていたのは、「とにかくやり切ろう」ということ。
たまに会社からの個人的なフォローはあまりなくて、ましてや、他の仕事まで「こっちも頼むよ」と言われたり。
自分の好きな業界だけど、心も体も悲鳴をあげる寸前でしたね。
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- 本記事は2017年2月17日に公開されました。現在の状況とは異なる可能性があることをご了承ください。