うつ病で好きだった仕事を辞めた後、人生を前に進めるためにやってきたこと

2017.02.17公開 2020.05.13更新

仕事の相方がパニック障害に

その頃、MacintoshやWindowsが始まり、デザインをコンピュータでやるようになった時代でした。

 

コンピュータですぐにデザインができるようになったため、代理店の人も「すぐできるでしょ」という感覚で無茶な要求を増えるようになっていました。

 

1週間単位で仕事が進んでいたはずが、だんだん1日ごとに区切られる仕事のペース。

 

僕もヘロヘロでしたが、相方のコピーライターが先にパニック障害になってしまいました。

 

ある日、打合せで宇都宮に行く時に、新幹線を予約して2人できっぷを取って、駅弁まで買って、一緒に席に座っていました。

 

「さあ、出発だ」ってベルが鳴った時に、相方のコピーライターの女性が「やっぱ無理」と突然言い出して、ばーって新幹線から降りてしまって…。

 

彼女もメンタルヘルスがやられて、僕も原因不明の発疹が出たり、頭痛がぬぐえなかったり。

 

病院に行った時に言われたのが「自律神経失調症かもしれない」という言葉。

 

それから僕なりに自律神経失調症を調べていると「深刻になると、うつ病になる」と書いてあって、「自分もメンタルクリニック受けなきゃ」と決心しました。

 

「通勤途中にある所で行きやすい所にしよう…」と新宿のメンタルクリニックに行きましたが、そこですぐに「うつ病です」って言われたんです。

 

順調だったデザイナーとしてのキャリアも、大きな曲がり角に当たり、文字通り途方に暮れていました。

 

そしてさらに、その後の会社の対応がさらに僕に追い打ちを掛けてきました。

 

自分もうつ病と診断。休職へ

病院の先生には、

 

「1週間、休んだぐらいじゃ全然良くならないので、1〜3か月は休んだほうが良いですよ」

 

と言われました。

 

病院の先生に言われたことを会社にも何度か伝えて、僕の代わりになる人も調整をして、やっと1ヶ月だけ休暇をもらえました。

 

休暇中は、「場所を変えよう」と思って旅行したりしましたけど、休暇中もポケットベルは持っているし、結局、復職までのカウントダウンでしかないんですよね。

 

写真を撮るのが好きだったので、カメラを持って箱根にも行ったんですけど、ロープウェイが怖くなっちゃって。

 

高い所が好きだったのに、高所恐怖症になったり、閉所が苦手になったり。

 

「昔は得意だったはずなのに、今はすごく怖い」っていう感覚が増えていきました。

 

そうやって過ごしているうちに、「あと、15日経ったら仕事しなきゃいけない」というようなことを感じ始めてしまい、休みと言っても、心が休まるなんていうのはありませんでした。

 

僕の勤めた会社は、プロ野球選手みたいに、その年の成果で契約を更改するシステムでした。

 

その年の成果を踏まえて、「次の年の年俸はいくらね」と条件が会社から、毎年3月30日に提示される仕組みです。

 

そして休職が終わり復帰後、契約更改の場で「君には営業に行ってもらいたい」と言われたんですね。

 

僕は当然、デザイナーとして働きたかったですし、休職したとは言え、しっかり成果も出していたので「営業なんかやりたくない」という気持ちでした。

 

それでも「営業のみをやって欲しい」ということだったので、「できない」と言うと、「じゃあ契約終了ね」「明日からフリーだね」と。

 

4月1日から突然、フリーランスになり、その会社の仕事を継続する形に。

 

フリーランスとして働きはじめて、もらったカタログの仕事。

 

カタログなので、商品の番号、名前、スペック、値段の定価、割引額などが、ずらっと表になっていて、それが何ページもあるわけです。

 

その資料を見ていた時に、急に気分が悪くなって、食べていたスパゲティを吐いてしまったんです。

 

うつ病と診断を受けていて頭痛や不眠などがあった中で、ただでさえ身体が重いわけですよね。

 

そんな中、吐いてしまったというとこで、「これは危険だ」と体が反応したんでしょうね。

 

このことがあって、デザインの仕事を一旦辞める決断をせざるを得なくなりました。

 

 

家族が住む所へ。しかし…

当時、29歳。仕事を辞めて借りていたアパートも引き払って、家族が住む所にお世話になることにしました。

 

でも、ゆっくりする、なんてことはできなくて…。

 

僕のパーソナルスペースは二段ベットの下だけ。家族がうつ病を理解しているわけでもありませんでした。

 

当時は睡眠薬を飲んでいたこともあり、昼飯を食べる頃にやっと起きて、昼ドラを観ながら食事をするという、ダラダラした生活しかできませんでした。

 

そのため、家族にしてみれば、「ただただ、だらしない生活をしていた」というわけですね。

 

家族からは「いつまでもあなたを養っていけないの」「働きなさい」と言われるようになりました。

 

なんとか週3日ぐらいから始められるバイトを探していたら、とある文房具屋さんに採用してもらえました。

 

それから、少しずつですけど順調に働く日数も増えて朝も起きれるようになっていきました。

 

結果的に良いウォーミングアップになった気がしています。

 

それでも、朝起きるのに時間がかかっていたので、母はそんな僕に呆れていましたね。

 

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家を出ることを決意

「このまま家族と一緒にいても、良くなるものも良くならないんじゃないか」と思うことは日に日に増えていきました。

 

アルバイトを通じて、体調も良い感じになってきたので、家を出るためにルームシェアなどについて色々調べていました。

 

すると、各市区町村にある施設や色々な社会資源の説明を見つけました。

 

そこで、「グループホーム」というものを初めて知り、入所することにしました。

 

グループホームに入所した時の一番の思いは「ちゃんと休みたい」でした。

 

実際にグループホームでの生活は全然せかせかしてなくて、居心地が良く、流れている時間の速さが非常にしっくりきていました。

 

夕食会で食べる食事は美味しいし、僕の通っていた作業所で作るパウンドケーキを作るのも楽しかったです。

 

本当にグループホームでの生活は僕にとってやすらぎになりましたね。

 

その頃、障害年金である程度のお金もいただけていたので、経済的な面からもゆっくりできたのだと思います。

 

作業所にはほとんど遅刻せず通っていましたが、ある時、二度寝してしまったことがありました。

 

「すみません、今起きました。遅れていきます」って電話をしてみても、作業所のスタッフの方は「はーい」という感じで、特別驚く様子もなくて。

 

この受け入れられる感覚は、今までの僕になかったものでした。

 

そういった経験を重ねていくうちに、「自分を許しても良いんじゃないかな」と思えるようになり、自分が変わり始めましたね。

 

当事者性や病識を受け入れるタイミングにだったのかもしれません。

 

当事者グループ、特例子会社での経験

僕の住んでいた地域には、全国精神障害者団体連合会(全精連)という、当事者グループの全国版の事務局がありました。

 

そこでも週3日働き始め、平日の残り2日は作業所という形で生活をしていました。

 

その後、グループホームの退出を契機に、週3日は全精連、週2日は狛江の地域生活支援センターで働き出すことになり、世田谷区や調布市でもピアスタッフの活動をするようになりました。

 

そこでは精神疾患の方の就労啓発にも携わるようにもなったんですね。

 

その頃、まだ精神障害者の方が勤めることは大変なことでしたが、実際に働いてる数少ない方をお呼びして、経験談を聞く活動などをやっていました。

 

いろんな地域の頑張っている当事者と関わっていく中で、「自分もサラリーマンになりたい」という思いを持ち始めました。

 

そしてちょうど、3.11が起きた年の1月に某有名企業の特例子会社から内定をもらい、転職することになったんです。

 

配属された部署では、私と同僚と上司の3人。当事者は僕だけで、あと2人は健常者でした。

 

仕事自体は順調だったんです。仕事もとてもやりがいがあって、WordやExcelを駆使して仕事したり、後輩の管理職的な役割もさせてもらったり。

 

ビジネスマナーの研修なども職場で自主的に開催していました。

 

そんな中、職場で調子を崩してしまった人が出たんです。その途端に社長がストップをかけて、「これ以上やるな」と。

 

さらに社長が「勉強してもだめなんだよ、障害者なんだから」と言っちゃったんですよ。特例子会社の社長が、ですよ。

 

それが僕にとってはものすごいショックで。

 

「特例子会社の社長がそんなこと言うの?」
「特例子会社もまだまだだったか」

 

という感覚に陥りました。

 

それから、どんどんネガティブなことしか考えられなくなって、気持ちが螺旋を描いて落ちていくんですね。

 

筋肉も硬直するようになったり、ドクターストップがかかり、結局1ヶ月休職して、退職するという決断に至りました。

 

退職後は傷病手当金を1年半と障害年金で暮らす生活に戻り、

 

「とりあえず休もう」

「お金をいただける間は休もう」

「ちょっと考えられるようになってから考えよう」

 

と、本当にぼーっと暮らすしかなかったですね。

 

今度は、旅行に行くこともできず、ただ寝ているだけのような生活でした。

 

ピアスタッフとして働く

啓発活動だけは続けていました。

 

参加していた会議では、当事者、家族、支援者、医者、専門職が垣根を越えて集まっていて、色んな人と出会えました。

 

そんな中、「巣立ち会」の理事長と出会い、ピアスタッフとして働くことに。

 

その頃の僕は生活保護を受け始めて、少しずつ自分のできることを模索していた時でした。

 

巣立ち会では、東京都の調布市と三鷹市で8か所のグループホームを持ちながら、4か所の日中活動の場を運営しています。

 

作業内容は内職的なものが多く、柔軟剤シートを封入する内職作業、DMの封入作業、政治家のポスター裏のテープを貼ったりなどです。

 

その他にアパートやマンション、公園の清掃などもありますね。どの作業も仲間と一緒に行います。

 

それ以外にも、長期入院されている人の所に行ったり、閉鎖病棟に入院されている方の外出に同行して、少しずつ地域に慣れてもらうことを行っています。

 

私たちピアスタッフは「潤滑油」のような役目。

 

個人の可能性って誰も否定することはできないし、自分まで否定したらもったいないなって思っています。

 

チャンスはいつやってくるか分からないし、ピアサポートする相手の可能性や未来を絶対諦めないスタンスを大切にしています。

 

その人に何ができるか分からないけれども、その人の未来を勝手に諦めるようなことをせず、「個性の大切さ」を今すごく感じながら働いてますね。

 

つながっていれば、なんとかなる

みなさんには、

 

「つながることを怖がらないで欲しい」
「つながっていれば、なんとかなる」

 

ということをお伝えしたいです。

 

そこから色々なものが動き始めるので、もし1人でこのサイトを見ている人がいれば、誰かとつながっていて欲しいと思います。

 

「ポジティブになれ」とは言わないんです。

 

でも、一人で悩み続けていることを誰かに聞いてもらえると、本当に良いきっかけになることだってあります。

 

だからこそ、まずはつながって欲しいということをお伝えしたいですね。

 

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近藤雄太郎

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  • 本記事は2017年2月17日に公開されました。現在の状況とは異なる可能性があることをご了承ください。