多発性硬化症で自暴自棄だった過去。絶望の世界を180度変えてくれた存在
病気とは無縁だった大学生の頃に突如襲ってきた「多発性硬化症」。
今回のインタビューは大学生の頃に多発性硬化症の診断を受けた、池田竜太さん。
診断を受けた当初は自暴自棄になりながらも、今では難病に対する向き合い方も変わってきたと言います。
そこで今回は、多発性硬化症の前兆として感じたこと、治療と仕事の両立の苦労、そして難病との向き合い方の変えてくれた存在などについてお話しいただきました。
〈インタビュアー 近藤雄太郎〉
多発性硬化症診断前の異変と診断直後
手を触ってる感覚が弱くて、手のひらや指の感覚がありませんでした。
例えば、お札を数えていても何枚か分からなくなったりもします。
ただ、ジーンとする手のしびれが続いているわけでもなく、最初はそんなに気にしていませんでした。
帰国してすぐ、突然左足が引っかかるようになってしまったんです。
ただ、その時の診断は腓骨神経麻痺。最初は手の問題と関係しているとは思わなかったですね。
親父はそんな俺を見て、ある有名な医師の講演会を聞きに新潟まで行き、「俺の息子が明らかにおかしい。頼むから診てください!」と直談判してくれたんです。
そのおかげもあって、早期に医師に診てもらうことができて、早くから治療がスタートできました。
ただ、医師から「多発性硬化症疑いなので、精密検査をした方がいい」と言われた時は、衝撃が強すぎて父も母もさすがに呆然としていました。
母は号泣していましたし、父もかなり落ち込んだ様子でした。
「なんとかなるはずだから大丈夫」
「私たちいるから平気だよ」
と、事あるごとに声をかけてくれ、ほんとに助けられてばかりです。
いきなり足が上がらなくなって、治療が始まって、これからどうなるんだろうと。
何もかもがおかしく見えてました。
自暴自棄にもなりました。もう全部やめてやろうかなと。
友人関係の変化と就職活動のこと
「何をしていいのか、何をしちゃいけないか、よく分からない」
と思われている気がして、それまで通りの関係を続けるのが難しくなったこともありました。
でも俺も同じ立場だったら「大変なやつとは遊べないかな」ってなるかもしれなかったので責める気持ちはないんです。
ただ、「今までみたいには付き合えないね」と言われてるようで、やっぱり無理か…と落胆したのは事実です。
伝え方も、重い話ではなく「こんな病気になっちゃったけど、よかったらまた遊んでね」と。
長い付き合いになるし、知ってもらっていたら助かると思って。
「話してくれてありがとう」
「もしつらかったら言ってね」
「俺にできることがあればするから」
と言ってくれて。とても救われた気持ちになりました。
分かっているからこその気を遣わない感じが気持ちよかったですね。
当時は大学生とのことで、就職活動はどうしていたのでしょうか?
病気のことを履歴書に書くと落ちる。履歴書に書かずに逆質問で「実は…」と言うと空気がガラッと変わってしまう。
1次面接で病気のことを言うと「ちょっと手に負えない」「うちでは厳しいかもしれない」という反応ばかりでした。
そこで「難病患者就職サポーター」という存在を知り、ハローワークに行ってみることに。
1ヶ月に1回程度の面談で、履歴書の添削、病気の伝え方について教えてもらえました。
特に、受けたい企業に書類を送る前に、こちらの病気のことを含めて企業に連絡してくれたので、すごくスムーズに面接に臨めました。
あとは、希望する求人に対しても率直に意見を言ってくれたのも良かったです。
やはり、書類や1次面接だと門前払いされてしまうので、選考が進んでから伝えるようにしました。
企業からある程度、評価をいただいている状態なので、門前払いにはならず、「病気だろうとしっかり働いてくれれば」という反応が多かったですね。
「何か良くて何がNGなのか」
「薬の副作用にどんなものがあるのか」
「薬によって体調が悪くなることがある」
「3ヶ月に1度通院が必要なので休ませてほしい」
といったことは予めお伝えして、理解してもらうようにしていました。
難病であっても、俺の場合は障害者手帳が取得できないので、一般枠での就職をせざるを得ませんでした。
難病だけど、障害者手帳取れない。だから一般雇用でしか働く所がないという人は、実はいっぱいいると思っています。
- 本コンテンツは、特定の治療法や投稿者の見解を推奨したり、完全性、正確性、有効性、合目的性等について保証するものではなく、その内容から発生するあらゆる問題についても責任を負うものではありません。
- 本記事は2020年7月3日に公開されました。現在の状況とは異なる可能性があることをご了承ください。