12歳で摂食障害に…家にも学校にも居場所がなくなった【山口理子さんPart1】

2018.06.24公開 2018.10.31更新
 

はじめまして。山口理子と言います。現在、27歳です。

 

12歳で摂食障害になり、拒食と過食を行き来して15年目になります。

 

昔から書くことが好きで、そのまま書くことを仕事にしました。

 

実は摂食障害の専門家の先生に取材して記事を書いた経験もあります。

 

摂食障害の原因はいまだにはっきりとわかっていないと言われますし、私もなぜこの病気になったのかはよくわかりません。

 

ただ敢えて言うならば、私はちょっと変わった家庭の下で育ちました。

 

側から見ればごく普通の家族だったかもしれません。けれど実際には、半分くらい機能不全家族だったんです。

 

 

会話をしなかった父と母

私の両親はほとんど家庭内別居状態でした。

 

未就学児の頃は家族みんなで遊んだり、食事をしていた記憶があります。

 

しかし小学校にあがった頃には、父と母は家の中で、ほぼ会話をしていない状態でした。

 

私も幼い頃、お父さんからちょっと性的な嫌がらせされたり、ニコニコしていると思ったら、突然激怒して冷たくされたり…。

 

今でも覚えてるのが、父親と一緒にお風呂に入っていた時。

 

何か気に障ることをしたのか、覚えていませんが、突然、頭からお湯をバサッとかけられ湯船から追い出されて。浴室から逃げるように飛び出たこともありました。

 

そのまま素っ裸でお母さんに泣き着いて、ワンワン泣きわめきました。

 

母も姉も「何があったの?」と呆然。私も何が起こったのかわからず、でもただ怖くて、ひたすら声を上げて泣きました。

 

父に限らず、母もその日の気分で言うことが変わる部分があります。

 

不仲の2人と日和見の機嫌に挟まれて、どこか窮屈な思いがあったのかもしれません。

 

今思うと、常に親の顔色を伺って育ってきた子どもだったように感じます。

 

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勉強ができる「お姉さん」的な存在

小学校の時は、我ながらませている子どもだったと思います。

 

年齢の離れた2人の姉と、一緒に遊びながら育ってきたことが影響しているのかもしれません。

 

発育も早くて、小学5年生ぐらいで現在の身長である160cmになっていました。

 

さらに、性格も真面目だったこともあって、何もしなくてもまあまあ成績が良かったんです。

 

通っていた小学校では、勉強についていくのが遅い子が避けられるような環境だったこともあり、その面では友達も私のことを認めてくれていた部分はありました。

 

だから調子に乗っていたのか、とにかくませてましたね。

 

今よりもよく発言するし委員会の委員長もやってしまう、グイグイいくような性格だったような気がします。

 

本当は末っ子なのですが、小学校ではみんなのお姉さんみたいな存在でしたね。

 

 

小学校のスクールカースト

でも、小学校生活は決して楽しいとはいえないものでした。

 

スクールカーストもあれば、いじめもある。先生から差別を受けている生徒もいる。

 

先生から所謂パワハラのような扱いを受けていた子は、しばらく学校を休んだ後、転校してしまいました。

 

学校での人間関係も、いつも気を張っていなければ居場所がなくなってしまうのではないかという不安が隣り合わせでした。

 

6年生に上がった時に、クラス替えがありました。

 

すると、自分のクラスに仲の良い子がいなくなってしまったんです。

 

このタイミングで、それまで仲の良かった子も、何故かみんな素っ気なくなったように感じてしまいました。

 

でも、明らかに無視されたり攻撃を受けたりしたわけではありません。

 

だからこれは多分、深い意味はなくて、単純に自分の適応能力の問題だと思います。

 

学校に居場所がなくなるのでは、周囲から拒否されてしまうのでは、と少しずつ焦り始めました。

 

 

「痩せれば認めてくれる?」

当時は家の居心地があまり良くない中で、家に居場所を見出せなかった最中。

 

学校でも自分の居場所が見つけられなくなって、孤独感を抱えながら過ごしていました。

 

1人になりたくなくて仲良くもない子と付き合おうとしたり、逆に優しくて受け入れてくれる子のことをないがしろにしてしまったり…そんな時期もありました。

 

12歳ともなると思春期に差し掛かる頃。

 

自分の体形が気になりだす時期だと思います。

 

身長が高くて若干肉付きの良かったこともあり、小さい頃からよく太っていると指摘されました。

 

BMIの数字だけでみればそこまで太っているというわけではありませんでした。

 

ただ、他の子より背も高いですし、体が大きいことは確かですから、「大きな子」のイメージは抜けなかったのでしょう。

 

体形へのコンプレックスは拭えませんでした。

 

学校でうまく人間関係を築けない。

 

じゃあ、大きな子という「欠点」を克服すれば、上手くいくのではないか?

 

その頃からですね、極端に食事制限をはじめて、明らかに摂食障害と呼べる状態になっていったのは。

 

 

早く痩せなければならない焦り

ある日、久しぶりに自分の体重を測ったら見たこともない数字が示されて驚きました。

 

「はやく痩せなきゃ置いていかれる」という焦りに駆られ、そのままご飯を食べなくなりました。

 

最初は、少し痩せられればいいという感じで、3kgぐらい体重を落とそうとしていたんですよ。案の定、歯止めがきかなくなるのですが。

 

明らかにご飯を食べなくなり、母親に対して食事メニューの文句をつけるようになっていたので、親との言い合いが増えました。

 

摂食障害によくある話ですが、栄養の本を買ってきて、豚肉のどこの部位に何キロカロリーあるとかを全部覚えました。

 

母親が買ってきた食材を見ては、「またカロリーの高い食材を買ってきてる!」と、今にしてみれば理不尽な怒りをぶつけていたと思います。

 

母親にとっては、毎日毎日、監視されてるような状態だったと思います。

 

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食への恐怖がエスカレートしていった

エネルギーの高いものを食べることは「恐怖」です。強迫行為のように食べ物を拒み続け、行動はエスカレートしていってました。

 

そんなある日、周りからは「痩せたね」と言われるようになりました。

 

ちょっとは痩せたのかなと思って体重測ってみたら、確かに6キロ以上は痩せている。びっくりしました。

 

この瞬間、当初の自分の目標はもう達成していたのですが、 「ここまで来たら、もっと痩せた体を目指そうかな」 という考えに変わってしまっていました。

 

それでさらに食べる量を減らしたり、過剰に運動したりするとすぐ目標数値に達するのですが、今度は更にその目標数値を下回りたくなってくるんです。

 

「まだいける、もっといける」

「落ちていく数字を見るのが楽しい」

「軽い体は何て楽ちんなんだろう」

 

狂信的に食への依存を深める私に、当然ですが、同級生は近づかなくなりました。

 

いじめられたり、無視されたりはしなかったですけど、周りの人からすごく距離を置かれるようになってしまって。

 

自分自身も他の遊びに興味が無くなっていたし、それが気楽なこともありました。1人になりたくなくて痩せ始めたのに矛盾していますよね。

 

みんなも「どうしちゃったんだろうね?あの人」みたいな感じだったんでしょう。

 

今思うと、拒食症の人の多くはそうやって悪いスパイラルに入っちゃうのかな。

 

私もいわゆる「ダイエットハイ」みたいな感じになっていて、もはや食べることしか考えてなかったので、他の遊びやお洒落、テレビなどに一切興味が無かったです。

 

だから周りの話題についていけなくなって、次第に距離が生まれて、やがて孤立するようになってしまっていました。

 

 

100グラム減ることも許されない

母親は怒ってばかりいたけれど、がむしゃらになんとかしようとしてくれていました。逆効果なことばかりでしたが。

 

父親は無関心だったので、我関せずで私が病気だったことすら知らなかったかもしれません。

 

母は自分の意見を是が非でも通そうとする傾向があり、「食べたくない」と言っても無理に食べさせようとするタイプでした。

 

なんとかして体重を戻そうとしたのでしょう。毎日、母親の前で体重計に乗せられていました。

 

体重が200gでも増えていたら何も言われないけれど、100gでも減っていたら、すごく怒られる日々でした。

 

親への反抗心が強かった当時は母親に刃向かう気持ちが大きく、逆に「なにくそ」と、ダイエットに歯止めがかからなくなっていました。

 

小6の終わりぐらいには、体重が38kgぐらいに落ちて、いよいよ危機感を覚えた母親に引っ張られるようにして病院を受診しました。

 

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ただ理解してほしかった

私自身、自分がおかしいことにはとっくに気付いていました。

 

自分の本当の気持ちを誰かに理解して欲しくてたまりませんでした。

 

ある日、本屋さんで摂食障害の本を自分で買って、お母さんに「これ読んで」と渡した記憶があります。

 

母は頭ごなしに「食え、食え」と言うだけだったので、これを読めば私のことを少しだけでも理解してくれるかな、という期待を抱いて。

 

なぜここまでして痩せたがるのかを知って欲しかった。

 

『「食べない心」と「吐く心」ー摂食障害から立ち直る女性たち』(著:小野瀬健人) という本ですが、ご存知でしょうか。

 

後日、「本、読んだ?」と聞いてみました。

 

すると母は一言、 「読んだけど、この人の言ってること間違ってると思う」と。

 

悲しいですが私の想いは伝わっていなかった。

 

母親は自分の考えを曲げることができなかったみたいです。

 

体重はどんどん減って、33kgぐらいの状態で、中学3年間を過ごしていました。

 

 

薬なんて飲みたくない

小学生から神奈川県立こども医療センターという病院に通っていましたが、そこでは抗うつ薬や安定剤、食欲増強作用のある薬などを処方してもらっていました。

 

高カロリー栄養剤も処方されていましたが、それを飲むのが本当に苦痛でした。

 

1mlあたり1kcalあって、一缶250ml、つまり一缶250kcal。

 

大げさかもしれませんが、私にしてみたらもはや毒物劇物です。

 

毎日毎日、それを飲むだの飲まないだの、飽きもせず母と喧嘩していました。

 

何だかんだ親には叶わないので、結局飲むんですけど、すごく薄めたり、出来る限り飲まないように反抗して。

 

ただ、その反抗が母親にとっては気に入らなくて、どんどん監視の目が厳しくなって、今度はこちらが監視される立場になっていきました。

 

 

「付加価値のない自分に居場所はない」

食に囚われてるような状況で、栄養失調が続き脳へのエネルギーが慢性的に枯渇していたこともあって、私の思考回路も少しずつ鈍っていきました。

 

集中力がなくなり、ボーッとすることが増えていきます。

 

それでも頭のいい自分でいたくて勉強は手を抜きませんでした。

 

成績はオール5の内申点満点。優等生でい続けました。

 

部活も部長でしたし、図書委員も委員長でしたし、きっと完璧主義的な部分もあるんだと思います。

 

そうでもしないと、何か肩書きがないと、存在価値がないような気がしていました。

 

普通にしているだけではどこにも居場所がないと思っていたから、勉強にしても部活動にしても、ある程度のポジションに立つことで、自分で自分の価値を見い出そうとしていたような気がします。

 

 

受験期を迎え、過食症に

中3の受験期を迎えて塾に入ってから、症状に変化が訪れます。

 

受験勉強をしていても、ずーっとお腹が空いているから、「あれが食べたい、これが食べたい」ばかりが頭を支配して、全然集中できないんです。

 

あれだけ食べることを忘れて勉強や部活にのめり込んでいたのに。

 

突然スイッチが切り替わったような感覚でした。

 

3年間ほとんど栄養をとらなかった反動で、過食が始まりました。

 

塾帰りにコンビニでお菓子を買いあさって、部屋で食べる。とにかく詰め込むように食べる。気持ち悪くなっても食べる。

 

頭と体が乖離する感覚。 その時が、一番自分にとっては辛かったですね。

 

拒食のときは体重という数値で自分をうまくコントロールできていたことで、心の中ではある程度の自尊心を保っていられました。

 

しかし過食に転じてからは一切コントロールができなくなったことに加えて、体重が元に戻っていく。

 

体重がこのまま戻っても、これまで失ってきた大切なものは戻ってこない。そう考えると、体重が戻ることが恐ろしくてたまらないんです。

 

拒食、過食と来て次に何をするかと言ったら、吐くことを考える。

 

幼い時からよく吐いてしまう子ではありました。

 

だからなのかはわかりませんが、私は結構あっさり吐けちゃったので、もう無限ループです。

 

自分で自分が制御できなかったので、毎日毎日、食べたり出したり、同じことの繰り返し。儀式や習慣に近い行為です。

 

そんなことをやってるから、高校でも友達はできなくて、表面的な付き合いぐらいしかしていなかったです。

 

生きている意味あるのかな、と思っていた頃でした。

 

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保健室の先生からの手紙

16歳の冬、体重が30kgを切りました。

 

その辺りから歩くことも難しくなってきました。

 

不思議な感覚で、歩こうとすると、身体が石みたいに固まってしまって、どう頑張っても歩けないような状態。

 

そろそろ死ねるのかなぁ、と期待している自分がいました。

 

そんな時に、自分のロッカーに、保健室の先生からの手紙がポストインされていたんです。

 

あとでわかったことですが、学校では、私のことは結構気に掛けられていたみたいで、

 

「最近、何か辛いことありましたか? 良かったら、いつでも保健室に来てくださいね」

 

といったことが書かれていました。

 

それを読んで、涙が止まりませんでした。

 

冷えた心に温もりが広がっていく感覚を覚えました。

 

「ようやく自分のことを見てくれる人が現れた」と。

 

保健の先生からの手紙をきっかけに、保健室登校を始めるようになりました。

 

それまでは、無遅刻、無欠席でした。

 

意地でも優等生でいたいという思いが多少なりともあったんです。

 

歩くのが大変なときは、1時間かかる通学時間が2時間ぐらいになりましたが、もう執念でしたね。

 

保健室には私のほかにも何人かの生徒が通っていたのですが、保健室で何をするでもないんです。一緒にお昼休憩したりといった感じです。

 

その時は保健室での時間が救いで、ようやく居ても許される場所が見つかったように思えましたた。

 

 

「このまま消えられたらいいのに」

ただ、もう体が限界で、何をどう頑張っても体重が落ちてしまうような状況でした。

 

1日で3kgぐらい減った日もあって、階段も登れなくなりました。

 

さすがにまずいんじゃないか?という認識はもちろんありました。

 

その一方で、このまま体重が10kgになり、5kgになり、0kgになって、消えちゃうのも良いかもしれないとワクワクする自分もいました。

 

死にたいという感覚はなかったんですけど、このまま重力的に存在しない人間になって、フッて消えられたら良いのに、って。

 

なんとかキープしていた体重もどんどん減っていき、年が明けてから体重を測ったら、24kgになっていました。

 

前々から病院では、「33kgを切ったら入院」と言われていて、明らかにデッドラインを割っています。

 

さすがに、もう抵抗するのはやめようと思いました。

 

当時、親は朝起きたら私がもう目を覚まさないんじゃないか、と不安になる日々だったらしいです。

 

親はもう腫れ物に触るというか、手が付けられない状況だったと思います。

 

実際に日常的な会話はほとんどありませんでした。

 

逆に、あの時こうして欲しかったということも特にないんです。

 

私にとっての母親と父親は、「理解者にはなってくれない存在」と思ってましたし、諦めていました。

 

別に、あなたたちに何かを求めてはいないという感じでしたね。

 

 

「本当に、あと一歩だった」

入院後、採血をしたら内臓に問題があることが分かりました。

 

肝臓の数値が特に危険で。AST、ALT、γ-GDP…通常の数値が数十程度の項目で、全部4桁オーバー。

 

なにかの間違いじゃないかって再採血されたぐらいです。

 

さらに、血液中の白血球や血糖も通常の数値の半分以下。意識障害が起こってもおかしくないレベルだったそうです。

 

幸いにも、脳は委縮してないので良かったのですが、「本当にあと一歩だった」と言われました。

 

本当にしぶといというか。自分で自分に驚きました。

 

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2ヶ月間、ずっとベッドの上

それから、約3ヶ月の入院生活が始まりました。

 

入院中、2ヶ月はベッドの上から一歩も動いてはいけない時期があったので、ずっとベッドの上で過ごしました。

 

ご飯を食べて寝る。絶対に動いてはならない。それが治療だったのです。

 

トイレにも行ってはだめで、看護師さん呼んでポータブルトイレを設置してもらっていました。

 

窮屈な生活がいやで、最初の頃は、周りの人に反発するような態度を取っていたこともありました。

 

しかし、1,2週間ぐらいすると、今まで0だった栄養が体に入ってきて、だいぶ脳がクリアになったのか、そこまで抵抗がなくなってきたんです。

 

治療に前向きになれた瞬間でした。

 

 

すぐに体重は戻らなかった

ただ、体重は思ったよりも戻ってくれませんでした。

 

先生や看護師さん曰く、

 

「まず、傷付いた肝臓の修復や免疫細胞の増殖に、全部栄養が使われる」

 

「体重が増えるのはそれが改善した後だから、そんな簡単には増えない」そうです。

 

当時の私は、早く元気になって退院したい気持ちと元に戻りたくない気持ちに揺れ動いて、毎日毎日「怖い、怖い」と怯えていたらしいです。

 

最も怖かったのは、それでも体重が増えることでした。

 

「なんで増えるのが怖いの?」と聞かれても、うまい答えは出てきません。

 

なぜか、「体重が一度減ってしまったら元に戻してはいけない」と信じきっていて、そのルールに縛られているんです。

 

回復することが怖かったのかもしれません。

 

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「なんでそんなに仲が悪いの?」

退院を嫌がってた理由のひとつに、あの家に戻りたくないという気持ちもあったと思います。

 

入院中も散々夫婦で揉めていましたし、 母親は父に状況を一切伝えないし、我関せずだった父は父で、「なんで母は俺に何も言ってこないのか」と、すれ違っていましたね。

 

入院中、母親と父親が2人でお見舞いに来てくれたことがありました。

 

その時に、私が幼少期からずっと疑問に思ってたことをふと聞いてみたんです。

 

「なんでそんなに仲悪いの?」 「なんでもっと仲良くなってくれないの?」 って。

 

「そんな所に帰りたくない」みたいなことも言ったかもしれません。

 

今までずっと言えなかったので、発言する瞬間実はすごく勇気がいったんです。

 

でも、それを伝えてから、ちょっとだけ2人が仲良くしてくれるようになりました。

 

その後、よく2人でお見舞いに来るようになって、3人でお昼ご飯を食べたりもしました。

 

お母さんが膝を痛めていて、うまく歩けないときはお父さんが先導して座らせる優しい一面を見ることもできたり。

 

入院中、記憶の中で初めて、私と父と母と3人で何かをしている時間が生まれたのです。

 

そして、それがすごく居心地よかったのを覚えています。

 

「このままずっと、お母さんとお父さんが仲良くしてくれたら良いのにな…」

 

16歳になっても、幼少期に抱いていたその気持ちに変わりはありませんでした。

 

恐らく、これからもずっと。

 

>>【Part2】とりあえず1日1日をちゃんと生きてる。今はそれでいい

 

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