うつ病の父。思春期の私。家族みんな必死だった【クローバー さん第3回】

前回、父が初めてうつ病(そして躁うつ病)を発症した当時のこと、闘病生活のことをお話しました。

 

その頃のわたしは、ちょうど思春期真っ只中の年齢。一般的には難しい年ごろです。

 

今回は、その頃のわたしがどんな気持ちに揺れながら、父の病気や家族と過ごしていたのか、振り返ってみたいと思います。

 

>>前回のコラムはこちら

お父さんが笑わない…うつ病が平和な家族を変えた【クローバー さん第2回】

 

 

父にイライラしていた思春期

父は、約1年の休職を経て職場復帰をしました。

 

実は、うつ病は寛解状態ではなかったものの、本人の強い意志で無理やり復帰したため、当時は不安定な状態で、以前に比べてかなり怒りっぽく、テレビを見るときの暗い表情は、時折出ていました。

 

一方、わたしは中学1年生の女子。思春期真っ只中です。

 

どうしても父にイライラしたり、嫌だなと思うことが多く、まともに口を利きたくない、うっとおしいなと感じて、口答えをすることもありました。

 

だけど、まだ病気が完全に治っていないのはわかっています。

 

そんな風にあたってはいけないよな…

でもなんかイライラするんだよな…

お父さん傷つけちゃったかな…

 

冷たい言葉を発した後にはいつも釈然としない気持ちが続いてしまい、小学校の頃のように、父にやさしくできない自分にモヤモヤしていました。

 

 

うつ病の再発、母に対する葛藤

父が復帰して1年ほど経ったころです。

 

もともと職場の仕事内容や人間関係が合わなかったのもあり、軽度ですが、父はうつ病を再発しました。父自身、もう限界かなと思ったようで、その後退職。

 

もともとお父さんっ子だったわたしですが、当時は中学3年生。

 

闘病生活を経て、父とはなんとなく離れ、その分、母との距離がだいぶ近くなっていました。

 

たぶん、わたしが大人になることで、対等に相談することができていたんだろうと思います。

 

また、父が母によくあたっていたり、けんかをするのを見ていたのもあり、

 

「わたしがお母さんを支えなければ」

「味方でいなければ」

 

そう思うようになっていました。

 

ところが、わたしは父に性格がとても似ていて、神経質で、人目を気にするし、我慢しがち。

 

自分だけはお母さんには迷惑かけちゃいけない。

心配かけちゃいけない。

 

と、長女だったことも影響したのか、この頃から自分で勝手に責任を背負うようになっていました。

 

 

家族みんな必死だった

ふつうの人が迎えるように、親とケンカしたり…ということがないまま、わたしは中学生活を過ごしてしまいました。

 

うつ病そのものが少し落ち着いたとしても、家ではずっと見えない闘いが続いていたんだと思います。

 

わたしは、本当は学校での人間関係でつらい日々が続いていたのですが、家では悟られないようにしなくちゃ…と思っていました。

 

きっと、父は父なりに、母は母なりに、弟も弟なりに…この時期は、みんな気持ちの面で葛藤があり、必死だったはずです。

 

 

苦しみの先にあるもの

こういう苦しい時期には、目の前の日々に一生懸命でいいのだろうなと思います。

 

日々を必死に生きていることしかできない時もあると思うからです。

 

そして、この体験が、意図せずいまのわたしの目標、生き方につながっていきます。

 

苦しみの先には、次のなにかがきっとある――

 

いまはそう思えます。

 

ペンネーム:クローバーさん

 

 

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  • 本記事は2017年6月20日に公開されました。現在の状況とは異なる可能性があることをご了承ください。