双極性障害としぶとく生きる…戻りたくない若い頃の「無理」【倉田惠太さん】

双極性障害Ⅱ型と共に静かに暮らす者です。少しでも悩みを持つ方へお役に立てるならと思い、今回の執筆に至りました。

 

発症して16年。治らぬうつ病に苦しめられ、精神科入院で双極性障害Ⅱ型と診断を受けて9年です。

 

服薬も月一の通院も欠かさないし、一応、障害者手帳も持っている。

 

お陰様で薬が合っているのか、「寛解」と言われる状態を有難くも維持している。

 

それでも日に拠って体調は変わるし、冬になれば抑うつの波がやって来る。

 

自分でも非常に厄介な症状?難儀な体質?だと思うが、こればかりは「やり過ごす」しか方法がない。

 

難儀な爆弾を抱えたと嘆いてみても、やけ酒に走っても「自分が抱えている物」は消えもせず、また変わらないのだから、ここはしぶとく生きていくしかない。

 

 

「若かった頃には戻りたくない」

因果なもので「若い頃に戻りたいですか?」と訊かれる歳になった。

 

世間では「ダブル成人式」と言うそうだが、私は終始一貫して、笑顔でこう答えるようにしている。

 

「いいえ、若い頃より今が居心地が良いので、若かったあの頃には戻りたくないです。」

 

今でこそ「若い頃は苦労しましたから…」などと多少、気取って言う余裕も生まれたが、人間は「本音と建前のバランスで生きる物」。本音は別の所にある。

 

それは自分を守る為で、ごく限られた人にしか明かさないものなのだが…。

 

 

自分を悩ませる正体が分からない日々

「若い頃に戻りたくない理由」、こういう場であるからこそ、告白しておかねばならないだろう。

 

「双極性障害Ⅱ型」という診断を、今の精神科の主治医に下されるまで、私は…いや私だけではなく、私の家族は勿論、親戚に至るまで…泥水を啜るような苦闘の中にいた。

 

もっと簡単に言い換えれば、「私を悩ませている病気が何か?」が確定せず、日々が過ぎて、気が付けば、時間が流れてしまったのである。

 

もちろん、青春を含めて「若い」という事は、何にも代え難い物だ。

 

「若い」というだけで、素晴らしいなの事だと言う人も居る。

 

私も確かにそれには同意するが、自分の中の病との闘いに費やした苦闘の日々を思えば、ほろ苦い思いが頭をよぎるのだ。

 

子供の頃に夢見た恋愛や結婚や家庭…。全ては絵空事にはなったが、それでも後悔はない。

 

「生きていくしかない」と腹を括りながら、何度、希死念慮の誘惑に苛まれたか…

 

「静かに生きていきたい」と願うだけである。

 

 

瞬間湯沸かし器の父の影響

ここは恐縮ながら、私の拙い身の上話に、お付き合い願いたい。

 

振り返ってみれば、子供の時から「気分屋」で「感情のコントロール」が不得手だった。

 

それは父方の家庭を見れば、そういうタイプの人間が多かったのだが、私も例外なくそのタイプで生まれ育った気がする。

 

父も「瞬間湯沸かし器」であり、一気に感情の針が触れる人間なもので、小さい頃から躾は厳しかった。

 

平手は飛んで来るし、絶叫に近い声量での罵倒は、日常だった。

 

高校の頃の思い出だったが、思春期真っ只中の頃、男の子と親父の関係はヒートアップする。

 

ドラマ・寺内貫太郎一家ばりの「親父との家庭内場外乱闘」を自慢するクラスメートの中で、自分だけはそのお喋りの輪に入れずにいた。

 

別にイジメを受けていた訳でもないが、親父殿とバトルを経験していない私は、蚊帳の外だったのだ。

 

(後年になって病を発症し、初めての入院が精神科病棟で、親父を泣かせてしまったのだから、随分と大人になってから、私も思春期を経たのかもしれない。)

 

 

「変わった人」は褒め言葉

他人様から「変わった方(人)ですね」と言われる事が、私には「褒め言葉」に思えて仕方なかった。(今でもそうなのだが…)

 

寧ろ自分がマイノリティーである方を、好んで生きて来た気がする。

 

本当に困ったちゃんではあるが、こういう性根はなかなか治らない。

 

お陰様で高校・大学と親の脛を齧ったが、どちらも「個性的な人間が集まる集合体」であった為に、病を得る事もなく自由に毎日を謳歌した。

 

「個性を押し殺す学校」へ私が進んだらと思うと、今でも冷や汗が出る。

 

恐らく履歴書に書ける行間は、確保出来なかったかもしれない。

 

生徒も個性的ならば、先生も十分に個性的だった。

 

飲酒に喫煙、不純異性交遊、パチンコ屋の新装開店に並ぶ生徒も居れば、先生も「武闘派の猛者」ばかり。

 

(勿論、2018年現在の学校では、そんな事はありません!そんな真似は絶対にやってはいけません!と申し添えておくが。)

 

 

就職活動でのしくじり

私がおかしくなり始めたのは、大学を卒業後に、就職してからだった。

 

「自立」する為の最大の契機にして、重要な人生の転換点ではあるが…

 

ここで私はシクジッタのだ。

 

就職活動をしていた2000年当時は、超が付く程の「就職氷河期」。

 

今のアベノミクス効果で内定を複数取る学生が、羨ましいと思うような時代。

 

安い革靴に悪戦苦闘しつつ、それを穿き潰して、片っ端からエントリーシートを送り、何度も何度も会社説明会や面接へ向かう…。

 

マスコミ関係などはエントリーも書類送付ではなく、インターネットで…という時代にシフトしつつあった。

 

今にして思えば随分と、私自身も「無理」をしていたのだと思う。

 

 

「変わった人」にサラリーマンは辛い

「変わった人」であっては、サラリーマン稼業は辛い。

 

むしろ組織の一員としては、「個性」なんぞ押し殺してしまう位の事が出来なければ、容易く生き残れないだろう。

 

しかし「変わり者」という人間は、「個性」を伸び伸びさせて欲しいと思いながら、「馬鹿正直にしか生きられない」という性質を実は持っている。

 

50社以上は面接を受け、エントリーシートを送って、やっとこさ、或る会社の内定を貰った。

 

内定通知書を貰った時には、苦労が報われた気持ちがして、天にも舞いたい気持ちだった。

 

しかしその内定通知書が、今にして思えば「悪魔からの手紙」となったのは…次回の話に譲るとしよう。

 

>>Part2(後日公開)

 

【書いた人】倉田惠太 さん(ペンネーム)

 

 

倉田惠太さんの連載一覧

【Part 1】双極性障害としぶとく生きる…戻りたくない若い頃の「無理」

 

 

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  • 本記事は2018年7月6日に公開されました。現在の状況とは異なる可能性があることをご了承ください。