両親の離婚と「日本離婚の子ども協会」の設立に至るまで【平賀信吾さん Part1】

2017.07.28公開 2017.07.31更新
 
シェア
ツイート
はてブ
お気に入り
共感
22

今回のインタビューでは、日本離婚の子ども協会代表の平賀信吾さんにお話を伺いました。

 

 

日本離婚の子ども協会を設立

はじめまして。平賀信吾と申します。日本離婚の子ども協会という任意団体の代表をしています。

 

私の両親も数年前に離婚しています。

 

両親の離婚の話をすると、「小さい頃に親が別れて、そのまま片親の方に育てられた」と思われがちなのですが、私の場合は事情がちょっと違って、自分が27歳のときに離婚が成立した、いわゆる「熟年離婚」でした。

 

離婚するまではずっと両親と一緒に生活していたので、外側から見ると「ごく普通の家庭」だったと思います。

 

私も実際、大学まで出してもらっているので、「何不自由のない、いわゆる普通の家庭の出身です」って言ってもおかしくはないですね。

 

しかし実際には、とても普通の家庭とは言えないようなところがありました。

 

 

団体設立のルーツはmixi

もともと、mixiのコミュニティサイトで、親の離婚を経験した人たちによる集まりのコミュニティがありました。

 

大体2~3ヶ月に1回程度、簡単なお茶会や飲み会をしていた活動が、この団体のルーツになっています。

 

自分の境遇と似ている人たちが沢山いて、今まで本音を話したくても話せなかった思いや、日常の違和感や不安に共感し合えることで、安心感を得ることができました。

 

私自身、そのコミュニティに参加していて、とても居心地が良かったんですし、心の負担やストレスがとても軽減されたと感じていました。

 

 

mixiそのものが使われなくなって

何年かはmixiでやっていましたが、mixiそのものの勢いが落ちてきてしまって、「このままmixiがなくなってしまうと、そのコミュニティもなくなってしまうのではないか」という危機感を抱きました。

 

このままコミュニティをなくしてしまうのももったいないし、コミュニティの参加者からも、

 

「自分たちで話したことを、もっともっと世間の人に知らせたいね」

「子どもたちのために何か役に立てられたら良いよね」

 

という話が出ていたので、私からmixiのコミュニティ管理人の方に「社会に出してみませんか」と提案をしました。

 

私が、団体設立の言い出しっぺだったので、どうやったら組織化できるか、どう情報を出せばうまく伝わるか、といったことを一から勉強して任意団体を作りました。

 

現在、団体は設立から2年目で、この2年目から私が代表をさせていただいています。

 

062

 

真逆な小中学生時代

小学校の5年か6年の頃ですが、3ヶ月に1回ぐらい、「みんなで出し物を決めて何かやりましょう」というクラス会がありました。

 

そこで、ほうきをギターに見立てて歌を歌っているくらい、結構活発な子どもでした。

 

その当時、好きな歌があって友達とよく歌っていたのですが、だんだんと人前で歌いたいという欲求が湧いて、何の抵抗もなく、ほうきを片手に歌ってましたね。

 

今では信じられないくらい自分を全面的に出していましたし、全く不満もなく、学生生活を楽しんでいました。

 

ただ、中学校に入ってからは、小学校時代の反動なのか、「自分の世間から見られる目」というものを気にしてしまうようになりました。

 

中学になって、急に先輩・後輩といった上下関係に接することが増え、「自分をこのまま出しているとやばいな」という気持ちになって、結構抑えるようになりました。

 

と、同時に「人前で歌うのが嫌だ」と思うようにもなって、カラオケも中学卒業間際にようやく初めて行けたくらいでした。

 

 

自由な高校時代とジャーナリズムを志した大学時代

高校は男子校で、学生の自主性を尊重してくれる特徴的な学校でした。

 

「君たちの個性も含め、ここで色々出してください」という感じの学校だったので、自分としても、あの高校に行けたのは有難かったなと思っています。

 

中学の時に感じていたちょっとした息苦しさや、空気を読んで我慢しなきゃ、という感覚は減りましたね。

 

体育祭や学園祭といったイベントにとても力を入れる学校で、私も気合を入れて取り組んでいました。

 

学園祭では出し物の中からグランプリを決めるのですが、そこにとても熱いものを感じていて、「だったら1番を目指そう」と、高校3年の時には本格的なハンドベルの出し物で1番になれました。

 

また、高校の授業で、平和教育や社会に対して強く目を向けさせるような内容の授業が多くあり、それに感化されて「ジャーナリストになりたい」と思うようになり、大学は社会学部に入りました。

 

ただ、実際に大学に入ってみると、自分の得たかったものが得られなかったんです。

 

当時は、より実践的なことを学びたかったのですが、大学では学問としてのジャーナリズムといった話に終始していて、「求めていたものと違う」と落胆していました。

 

大学3年の頃から、私生活の一番辛い時期と重なっていたので、「このまま大学を続けるのも辛い」と思う一方で、「今から他の生き方を見つけるのもすごく大変だな」とも考えていました。

 

050

 

「正社員にならなくては」という義務感

就職が決まらないまま大学を卒業しましたが、当時は景気が上向きになって第2新卒の枠でも採用してくれるような空気になっていた時期で、大学卒業して半年ほどして正社員になれました。

 

就職した会社は、マスコミとは関係のないおもちゃメーカーでした。

 

でも、周りの人に「社会人になって私は立派になりましたよ」というのを証明するために、ものすごい勢いで仕事を頑張っていたのですが、早い段階で限界が来てしまいました。

 

「自分は本当にこの会社で続けられるのか」という不安は入社段階から持っていました。

 

「正社員にならなくては」という義務感に駆られていましたが、それだけだと会社を続けるのが辛くなってしまって。

 

 

味方だと思っていた人に…

当時、職場の人間関係で我慢をしていたときに、「あなたの味方だよ」とおっしゃってくれた方がいました。

 

ところが、その方に仕事上の些細なミスをものすごい勢いで責められてしまったことがあったんです。

 

味方してくれるって言ってくれたのに、「この人をあてにできないなら、どうしたら良いのだろう」と不安になりました。

 

それで心が完全に折れてしまい、このまま続けるのは厳しいと感じて、1週間ほど休みをいただいた後に、「もうちょっと自分のやりたいことに目を向けてみたい」と伝えて、入社から2ヶ月ほどで退職しました。

 

 

将来の夢なども全く考えられなかった

その頃は、自分が独り立ちしたいのか、とにかくまともに生きたいのか、まずどうしたら良いのか全然分からなくなってしまいました。

 

当然、将来の夢なども全く考えられる状態じゃなく、嫌々親と一緒に暮らしていました。

 

でも、ここを抜け出すためには自立しないといけないですし、自立するためには会社で正社員として勤めないといけない。けれども結局その方法も上手くいかなかった。

 

このままだと厳しいな、と思って、とりあえずアルバイトをして全く何もしない状況を回避しながら、将来どうしようと考えていました。

 

2年ほどそういう生活を続けていく中で、いくつかきっかけがあって、再び前向きになれました。

 

049

 

東日本大震災に気付かされたこと

前向きになれたきっかけのひとつが、2011年の東日本大震災です。

 

地震が起きた時、私は浦安市の自宅にいまして、尋常じゃないぐらい強い影響を受けました。

 

都内に友人と連絡を取っていましたが、「うちはそこまでひどくないよ」と友達が言う中で、自分の家はかなりぐちゃぐちゃになっていましたし、1週間くらい水道とガスが使えなかったんです。

 

そういった経験をして、「このままの自堕落な生活ではだめだ」という思いがものすごく湧いてきて、素直に「自分のために生きよう」と前向きになれました。

 

 

両親の離婚。悩みの大元が無くなった

ちょうど東日本大震災の前年に両親の離婚が成立しました。

 

自分の中で、「親が離婚するかも」と思ってから、実際に離婚するまで大体10年ぐらいあったんです。

 

もしかしたら、両親的にはもっともっと過去から色々あったんじゃないかなとは思いますが、自分が気付いてからでも10年。

 

地震の時は、両親と一緒に暮らしていない状況でしたし、10年間ずっと気になっていた悩みの大元がなくなっていたので、ある程度、自分のことだけに考えを向けられるようになった、というところもありますね。

 

 

「うちの両親やばくない?」

離婚する10年前、両親の異変に初めて気がついたのは、17歳の正月の時でした。私と1つ上の兄と両親で、正月に父方の実家に行った、その帰りのことです。

 

その親戚との間では特に何もなかったのですが、帰りの電車で、両親が何かをボソボソと話していたんです。

 

私は寝たふりをしていたのですが、私の隣に両親が座っていて、

 

「このままの関係じゃ嫌だ」

とか

「一度ちゃんと振り返ってお互いのことを見つめ直したい」

 

といったことを母親が言っていました。恐らく、そういう不満を色々溜めていたのでしょうね。

 

父親は人の気持ちをあまり深く考えてくれるようなタイプではなかったので、色々と不満が溜まってたのを、ようやくそこで話し合えたのではないかと思います。

 

その時に、「うちの両親やばくない?」という感覚を初めて覚えました。

 

 

両親の変化に子どもは敏感

「両親が喧嘩してピリピリしてるな」とか、子どもって両親のことをよく見ているので、2人の空気がおかしくなると、私も敏感に気付いていたんですよね。

 

両親は「自分たちだけの問題」と思っているかもしれないですが、同じ家に住んでいるのは子どもも一緒ですから、そういう影響も受けてしまうのではないか、と思います。

 

17歳の正月から両親の問題が表面化して、悪いところがより見えるようになってきました。

 

 

表面化していく両親の溝

母親は耳が悪い方で、父親が言っていることがあまり聞こえてなかったようなんです。

 

母親曰く、父親はそういうところに配慮してくれなかったようで、「言いたいことだけを言って、私のことを全く考えてくれなかった」といった不満を、母親の友人に電話口で言っていたこともありました。

 

その時は、母親がほぼ一方的に、父親に対して不満を抱いていたという印象でした。

 

父親はあまり争い事を好まないというか、良い意味でも悪い意味でも空気を読まなくて、「自分の世界を生きていればいい」というようなタイプの人でした。

 

私個人はそんなに不満はありませんでしたが、母親的には旦那としての頼りなさや不満が溜まっていたようですね。

 

続きは第2回へ

 

 

平賀信吾さん全インタビュー

【Part1】両親の離婚と「日本離婚の子ども協会」の設立に至るまで

【Part2】「悩みを吐き出して生きることはおかしいことではない」

 

 

インタビューを受けてくださる方、募集中です

臨床心理士、精神保健福祉士、看護師、保健師、産業カウンセラー、支援機関の職員など、すでに多くの方にインタビューを行っています。ご自身が、有名かどうか、権威かどうかは関係ありません。

 

また、精神疾患などの当事者の方、メンタルヘルスや人間関係でお悩みの方などのインタビューも行っております。

 

これまでの経験・取り組みや、ご自身の想いを読者に届けていただき、Remeのミッションである「こころの専門家へのアクセスの向上」「こころの健康に関するリテラシーの向上」の実現のために、お力をお貸しいただけますと幸いです。

 

 

ご興味をお持ちいただけましたら、下記フォームよりお問い合わせください。24時間以内にご連絡いたします。

お名前
メールアドレス
保有資格・所属・ご要望など

シェア
ツイート
はてブ
お気に入り
共感
22

関連記事