虐待、不登校、自傷行為、閉鎖病棟への入院…「いらない子」だった頃の私へ
親からの虐待、不登校、DV、自傷行為、閉鎖病棟への入院…
様々な壮絶な経験を経て、現在(2017年10月時点)はチャイルドカウンセラーとしても活動を始めている、赤津ゆいさん。
「諦めず、真っすぐ前を向いて生きていれば、いつかは報われる」と信じる赤津さんの強い精神力の背景について、実体験とともにお話しいただきました。
目次
両親からの暴力に心の体調を崩す
私は双子の姉で、ひとりで遊んでいるのが好きで、今振り返ると「強迫性障害」だったのかもと思うくらい、すごくこだわりが強かった子どもでした。
例えば、ブロック遊びをする時も「この色のブロックは絶対使わない」「この色だけで遊ぶ」と決めていたくらいです。
もし周りから「きれいにできたね」と褒めてもらえていたら、そのこだわりも良いほうに転んだかもしれません。
でも、あまりにもこだわりが強過ぎたので、周りからは「そんなにこだわらなくていいんじゃない?」と言われてしまって、「え、どうして?」とすんなり受け入れられませんでした。
実は、物心ついたときには祖母と暮らしていたので、幼少期の写真を見ると、母と写っている写真が1枚ぐらいしかないんです。
私自身もその当時、母親の記憶はありませんでした。
知っていたのは「ママ」という単語だけで、存在は知りませんでした。
保育園の先生も母親がいないことを理解していたので、母の日にお母さんの顔を描きましょう、というときも「おばあちゃんでいいよ」と言ってくれていました。
母親という単語は知っているのに実物がいない。透明な人だというような感覚がありました。
そうしたもやもやした部分を人に相談することはしませんでした。
多分、祖母に気を遣って言えなかったんだと思います。双子の妹もすごいおばあちゃん子でした。
しかし、祖母に育てられたのは小学校4年生まででした。
4年生になった時、急に母が再婚することになって、それから一緒に暮らし始めました。
そして、その年に3番目の妹が生まれて、その次の年に4番目の妹ができたんです。だから、あまり母親に甘えられませんでした。
夏休みに、祖母の家に行くとすごく楽しいんですけど、家に帰りたくなくて最終日にどうしても具合が悪くなってしまっていました。
母のいる家には妹がいて、新しいお父さんがいて、「私の居場所はどこなんだろう」という感じでした。
母の家は、私にとって帰る家ではなかったし、父親というものにもどうしても馴染めませんでした。
母親も母親になり切れてない部分があって、私も家に居場所を感じらず、祖母の家にずっといたいと思っていました。
でもそれはかなわず、半ば強制的に、母親と一緒に暮らさなくてはいけなくて。
そこには必ずしも愛情があったわけではなくて、それどころか父親から暴力も受けましたし、母親からも首をタオルで締められて、死にかけたこともあります。
それぐらい、母親からも父親からも高いストレスをかけられた状態で、常にびくびくしながら過ごしていたので、心の体調を崩してしまいました。
両親から暴力を受けていた頃は、
「どうしてこの人は私たちを殴るんだろう」
「私が何か悪いことした?」
「死んでしまいたい」
「私はいらない子なんだ」
と、ずっと思っていました。
「出ていけ」と言われて裸足で外に出されたこともありましたし、その裸足のまま夜中の町をさまよい歩いたこともありました。5年生の頃だったと思います。
本当に祖母が恋しくて恋しくて仕方なかったです。
愛情を感じる前に暴力を感じていたので、恐怖しかなかったです。
「次は何をされるんだろう」って。
双子の妹も同じように親からの暴力を受けていました。
でも、妹はどちらかというと、ストレスの高い両親のもとでいい子を演じられていたので、私ほどは怒られていませんでした。
私は親に「これやって、あれやって」と言われても「なんで?」「嫌だ」と言う子でした。
素直に「嫌だ」と言うと暴力を振るわれたり、「出てけ」と追い出される…。本当に理不尽でしたね。
母親は、3番目と4番目の子どもにはちゃんと母親をしていました。
ある日、3番目の子どもが熱を出して、けいれんをしたことがあったんです。
その日、双子の私たちはインフルエンザにかかっていたんですが、すごい形相でインフルエンザの私たちをたたき起こして「救急車呼んで、救急車呼んで!」って言うんですよ。
「ええっ!?嘘でしょう!?」と思いますよね。
「3番目、4番目の子どものことを嫌いか」って言われると嫌いではなくて、私たちはむしろ大好きです。
年は離れていますが、姉妹間はすごく仲がいいんです。
でも、母は3番目、4番目には一定の愛情があったのに、どうして私たちにはなかったんだろう、という思いはありました。
片親や貧乏な子をいじめる先生
小学4年生の担任の先生はすごくいい方でしたが、5,6年の担任の先生が、私に厳しい人でした。
ある女の子が、夏休み明けにマニキュアを塗って学校に来たんです。
多分、そのマニキュアは落とし忘れてしまったんだと思いますが、それを見た先生がその子の手をつかんで「やくざ」と言ったんです。
その子はお母さんしかいない子でした。
私が集金袋を忘れたときも別室に呼ばれて、
「お前が集金持ってこないから、俺は子どものミルク代で立て替えなきゃいけないんだぞ。分かってるのか」
って言われたことがありました。
それから、その先生が嫌になってしまって学校へ行きたくなくなってしまいました。
今考えても、本当に大嫌いで、よく耐えたなと自分でも思います。
中学校は両親の都合で、となり町にある学校に行きました。
中学校に入ったら何か変わるかなと思っていましたが、そこの中学校も閉鎖的なところで、何も変わりませんでした。
学力上げろ、部活頑張れ、内申点上げろ、いい高校行け、という方針の中学校で、バカらしく感じてしまって、2年生になったときに不登校になりました。
「どうせうちは貧乏だから高校には行けない」と思っていたので、周りの子が「あそこの高校へ行きたい」「内申点上げなきゃ」などと言っているのがすごくうらやましかったです。
親に「高校に行きたい」と言える環境ではなかったので、ねたましいというのもあって学校へ行く意味が分からなくなっていましたね。
そうしたこともあって、親への抵抗じゃないですけど不登校をして長い夏休みに入りました。それが中学2年生から3年生の半ばまでです。
学校に行かなくなってからは昼夜逆転して、カウンセラーのところに行くときだけはちゃんと起きるような生活。児童相談所の人も来ることもありました。
小学校6年生の頃、私が体調を崩したときに、小児科に行ったんですが原因が分からないことがありました。
双子の妹も同じような症状で、「1回、精神的な面を見てもらったらどうですか?」と言われて、初めて臨床心理士と出会いました。
親は「話してるだけで金の無駄使いだ」と言ってましたが、自分はカウンセリングで少しずつ変われた気がします。
カウンセリングで印象に残っているのは、「ゆいちゃんはいい子だから」と言われたこと。
「私は、嫌だ嫌だしか言ってません」と言ったら、「それでいいんだよ」と言ってくれたんです。
その言葉をすんなり受け入れて、心を開くことができたんだと思います。
カウンセラーのことはとても信頼できて、その先生には高校3年生までお世話になって、すごい長いお付き合いをすることができました。
カウンセリングの頻度は、多い時で2週間に1回のときもありました。
先生との相性も良かったと思いますが、カウンセリングは話して終わり、とかではなくて、「自分が自分を見つめられる場所」でした。
カウンセリングを受けて、とりあえず「生きよう」と思えたんです。
毎日、本当に「死にたい、死にたい」と思っていて、リストカットもしてODもいっぱいしていました。
でも、そうしている私の脇で親に「どうせ死なないんでしょ。死ぬ人間はそんなこと言わないから」と言われて、とてもショックを受けました。
でも、カウンセリングを受けてからは、「カウンセラーさんのためにも死ねない、やっぱり生きよう」と思いました。
カウンセラーに出会わなかったら、高校も行かなかっただろうし、大学にも行けなかったと思います。
母親は妹の進学にはとても乗り気になっていましたが、私には「中卒では働け」と言ってきました。
三者面談のときに「この子は、高校は行かせません」と母親が言ったんです。
そしたら担任の先生が、
「待ってください。ゆいさんは国語の成績はすごくいいんです。ここの高校の普通科へ行って大学の推薦ももらえるレベルです」
と言ってくれて、駄目もとで高校を受けて入学することができました。
高校入学後は実家から逃げるようにして、親戚の家から学校に通うようになりました。
祖母の義理の兄弟の家だったので、再び祖母とも近くなり、しかも両親と離れられたのでバイトや部活も自由にできました。
高校では親に虐待を受けていたとか、親が再婚したとか、年が離れた兄弟姉妹がいるとか、似たような環境の子が多くて、ねたましいといった感情はありませんでした。
「私たちだけじゃなかったんだ」と心強くなりましたね。
学校の先生も私たちの境遇に理解をしてくれて、いい意味で好きにさせてくれました。
不登校が嘘だったように学校に通えた
高校では親友と呼べる子ができて、同じ大学にも行きました。
中学の頃、不登校だったことが嘘みたいに毎日高校へ行っていたんですよ。先生もすごくいい先生ばかりでした。
何かしら問題を抱えている子が多い高校だったので、先生たちも慣れていたというのもあるとは思いますが。
無理やり学校に行く感覚は全くなく、朝起きて自然と「学校に行こう」と思っていました。
受験勉強では、特に数学が全然できませんでした。
小学生レベルからできない状態で高校に入って、授業が始まってもできるわけがなくて…。
それが悔しくて「私だってやってやる」と思って、毎日数学の先生のところに行って勉強を教わりました。
高校ではかなり勉強していたと思います。
なんでそんなに頑張れたかと言うと、ほめてくれるんです。「頑張ったね」と認めてもらえる。
今まで認めてくれる大人が周りにいなかったので、認めてもらえるということが私にとってすごく大きいことだったと思います。
1年生の時、担任の先生が美大へ移ることが決まり、卒業後の進路として美大がすごく気になり始めていました。
そこで、親友と一緒にオープンキャンパスに行ったんですが、山奥の学校で「何てところなんだろう」と驚きましたね。笑
その大学で新たに、小説や記事の編集者を育てる学科ができると聞いて、「そこに行きたい」と担任の先生に相談したら、「あなたなら合格できるよ」と言われて。
三者面談のときも、先生が母親に「他の学科だったら止めますけど、この学科だったら安心して行けます」と言ってくれて、すんなり大学に行けました。
でも、私が大学に行った代わりに妹が大学に行けませんでした。
経済的な問題があって、妹が大学進学を諦めたと聞いたとき、「私も大学へは行かない」と言ったんです。私だけ大学に行ったら意味がないと思って。
でも妹が、「いいよ、行きなよ」と言ってくれて、それも大学進学のきっかけになりました。
ちなみに、妹は高校卒業後、美術館に勤めました。非常勤でしたが、一応地方公務員です。
妹はすごく造詣が深くて、私が大学で勉強したことを話すと「ああ、あれでしょう」と知っているんです。彼女もすごい勉強家なので。
大学に入ると、母親が「妹がちゃんと働いてるのに、何であんた学生なんてやってんの。早くやめてこっちへ戻ってきなさいよ」と言ってきました。
学費を出してくれた親類からは、講義の合間でも講義を終わった後でも毎回電話がかかってきていました。
着信が毎回携帯を見るたびに、5件10件は入っているくらい、すごい過干渉でした。
それが原因で大学1年生の夏にまた体調が悪くなってしまいました。
「何で私の人生にこんなにかかわってくるんだろう」と、しんどくなってしまって。
それで山形駅の近くの小さいクリニックを紹介してもらい心療内科に通いました。そこには5年通いましたね。
親類からの過干渉は高校の時からすごくて、高校生のときにかばんを見られたことがあったんです。
私たちがお風呂に入っている間に、何を持っているのかチェックしていたようで、妹のかばんをあさっているところを見てしまいました。
「1を知ったら10知らないといけない。親代わりってそういうもんだよね」という考えの人だったんです。
その親類は、独身で子どもを育てたことがないから仕方ないとは思っていたんですが、大学に入ってその度が過ぎていってしまったので、「もう駄目だ」と。
大学の単位も落として留年をして、結局大学はやめてしまいました。
みんなが卒業するという年に中退して、1年くらい山形のスナックに勤め始めました。
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- 本記事は2017年10月29日に公開されました。現在の状況とは異なる可能性があることをご了承ください。