「私はいらない子」とずっと思っていた子ども時代【赤津ゆいさん Part1】

2017.10.29公開 2017.10.30更新
 
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今回は、親からの壮絶な虐待、不登校、DV、未婚の出産などを経験し、現在はチャイルドカウンセラーとしても活動を始めている、赤津ゆいさんにインタビューをしました。

 

 

こだわりの強かった子ども時代

私は双子の姉で、ひとりで遊んでいるのが好きで、今思うと、強迫性障害だったのかもと思うくらい、すごくこだわりが強かった子どもでした。

 

例えば、ブロック遊びをする時も、「この色のブロックは絶対使わない」「この色だけで遊ぶ」と決めていたくらいです。

 

もし周りから「きれいにできたね」と褒めてもらえていたら、そのこだわりも良いほうに転んだかもしれません。

 

でも、あまりにもこだわりが強過ぎたので、周りからは「そんなにこだわらなくていいんじゃない?」と言われてしまって。

 

そんなふうに言われても、「え、何で?」とすんなり受け入れられませんでした。

 

 

幼少期は祖母に育てられる

物心ついたときには祖母と暮らしていたので、幼少期の写真を見ると母と写っている写真が1枚ぐらいしかないんです。

 

私自身も母親の記憶はありませんでした。

 

知っていたのは『ママ』という単語だけで、存在は知りませんでした。

 

保育園の先生も母親がいないことを理解していたので、母の日にお母さんの顔を描きましょう、というときも「おばあちゃんでいいよ」と言ってくれていました。

 

幼少期はすんなりおばあちゃんの顔を描けていましたが、小学校に上がると、「何でうちにはお母さんがいないんだろう」と思うようになりました。

 

母親という単語は知っているのに実物がいない。透明な人だというような感覚がありました。

 

そうしたもやもやした部分を祖母や周りの人に相談したりすることはしませんでした。

 

多分、祖母に気を遣って言えなかったんだと思います。双子の妹もすごいおばあちゃん子でした。

 

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母親に甘えられなかった過去

小学校4年生までは、祖母に育てられていたんです。

 

ただ、4年生になった時、急に母が再婚することになって、それから一緒に暮らし始めました。

 

その年に3番目の妹が生まれて、その次の年に4番目の妹ができたんです。だから、あまり母親に甘えられませんでした。

 

夏休みに、前に住んでいた祖母の家に行くとすごく楽しいんですけど、最終日になると、帰りたくなくてどうしても具合が悪くなってしまっていました。

 

母のいる家には妹がいて、新しいお父さんがいて、「私の居場所はどこなんだろう」という感じでした。

 

母の家は、私にとって帰る家ではなかったし、父親というものにもどうしても馴染めませんでした。

 

 

両親からの暴力に心の体調を崩す

母親も母親になり切れてない部分があって、私も家に居場所を感じらず、祖母の家にずっといたいと思っていました。

 

でもそれはかなわず、半ば強制的に、母親と一緒に暮らさなくてはいけなくて。

 

そこには必ずしも愛情があったわけではなくて、父親から暴力も受けましたし、母親からも首をタオルで締められて、死にかけたこともあります。

 

それぐらい、母親からも父親からも高いストレスをかけられた状態で、常にびくびくしながら過ごしていたので、心の体調を崩してしまいました。

 

 

「私が何か悪いことした?」

両親から暴力を受けていた頃は、

 

「どうしてこの人は私たちを殴るんだろう」

「私が何か悪いことした?」

「死んでしまいたい」

「私はいらない子なんだ」

 

と、ずっと思っていました。

 

「出ていけ」と言われて裸足で外に出されたこともありましたし、その裸足のまま夜中の町をさまよい歩いたこともありました。5年生の頃だったと思います。

 

そういうこともあったので、本当に祖母が恋しくて恋しくて仕方なかったです。

 

愛情を感じる前に暴力を感じていたので、恐怖しかなかったです。

 

「次は何をされるんだろう」って。

 

 

妹ほどいい子を演じられなかった

双子の妹も同じように親からの暴力を受けていました。

 

でも、妹はどちらかというと、ストレスの高い両親のもとでいい子を演じられていたので、私ほどは怒られていませんでした。

 

私は親に「これやって、あれやって」と言われても「なんで?」「嫌だ」と言う子でした。

 

妹は私に対して、「本当は嫌なんだよね」と言っていましたが、親に対しては「はい、分かった」と言うことを素直に聞いていました。

 

私としては「やらなきゃいいじゃん」と思ってしまうのですが、それを素直に「嫌だ」と言うと、暴力を振るわれたり、「出てけ」と追い出される…。本当に理不尽でしたね。

 

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姉妹間で母親の接し方が違った

母親は、3番目と4番目の子どもにはちゃんと母親をしていました。

 

ある日、3番目の子どもが熱を出して、けいれんをしたことがあったんです。

 

その日、双子の私たちはインフルエンザにかかっていたんですが、すごい形相でインフルエンザの私たちをたたき起こして「救急車呼んで、救急車呼んで!」って言うんですよ。

 

「ええっ!?嘘でしょう!?」と思いますよね。

 

3番目、4番目には一定の愛情があったのに、どうして私たちにはなかったんだろう、と思ってしまいますね。

 

でも、「3番目、4番目の子どものことを嫌いか」って言われると嫌いではなくて、私たちはむしろ大好きです。

 

年は離れていますが、姉妹間はすごく仲がいいんです。

 

 

片親や貧乏な子をいじめる先生

小学4年生の担任の先生はすごくいい方でしたが、5,6年のときの担任の先生が、私に厳しい人でした。

 

その先生は、どちらかというと裕福な子をひいきして、片親で貧乏な子をいじめていました。

 

ある女の子が、夏休み明けにマニキュアを塗って学校に来たんです。

 

多分、落とし忘れてしまったんだと思いますが、それを見た先生がその子の手をつかんで「やくざ」と言ったんです。

 

その子はお母さんしかいない子でした。

 

 

今考えても大嫌いな先生

私が集金袋を忘れたときも別室に呼ばれて、

 

「お前が集金持ってこないから、俺は子どものミルク代で立て替えなきゃいけないんだぞ。分かってるのか」

 

って言われたことがありました。

 

それから、その先生が嫌になってしまって学校へ行きたくなくなってしまいました。

 

今考えても、本当に大嫌いで、よく耐えたなと自分でも思います。

 

 

学校に行く意味が分からず不登校に

中学校は両親の都合で、となり町にある学校に行きました。

 

中学校に入ったら何か変わるかなと思っていましたが、そこの中学校も閉鎖的なところで、何も変わりませんでした。

 

学力上げろ、部活頑張れ、内申点上げろ、いい高校行け、という方針の中学校で、バカらしくなって2年生になったときに不登校になりました。

 

学校へ行く意味が分かりませんでしたね。

 

 

高校に行きたいと言える環境じゃなかった

「どうせうちは貧乏だから高校には行けない」と思っていたので、周りの子が「あそこの高校へ行きたい」「内申点上げなきゃ」などと言っているのがすごくうらやましかったです。

 

親に「高校に行きたい」と言える環境ではなかったので、ねたましいというのもありました。

 

そうしたこともあって、親への抵抗じゃないですけど、不登校をして長い夏休みに入りました。それが中学2年生から3年生の半ばまでです。

 

学校に行かなくなってからは昼夜逆転して、カウンセラーのところに行くときだけはちゃんと起きるような生活で、児童相談所の人も来ることもありました。

 

カウンセリングはスクールカウンセラーと小学校6年生の頃に紹介された病院の臨床心理士さんにかかっていました。

 

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カウンセリングとの出会い

小学校6年生の頃、私が体調を崩したときに、小児科に行ったんですが原因が分からないことがありました。

 

双子の妹も同じような症状で、「1回、精神的な面を見てみたらどうですか?」と言われて、初めて臨床心理士と出会いました。

 

親は、「話してるだけで金の無駄使いだ」と言っていたんですが、自分はカウンセリングで少しずつ変われた気がします。

 

カウンセリングで印象に残っているのは、「ゆいちゃんはいい子だから」と言われたことです。

 

「私は、嫌だ嫌だしか言ってません」と言ったら、「それでいいんだよ」と言ってくれたんです。

 

「ああ、私、いい子だったんだ」とその言葉をすんなり受け入れて、心を開くことができたんだと思います。

 

 

話して終わりのカウンセリングではなかった

カウンセラーのことはとても信頼出来て、その先生には高校3年生までお世話になって、すごい長いお付き合いをすることができました。

 

カウンセリングの頻度は、多い時で2週間に1回のときもありました。月1ぐらいになったのは、ちょうど高校生になってからですね。

 

先生との相性も良かったんだと思いますが、カウンセリングは話して終わり、とかではなくて、「自分が自分を見つめられる場所」でした。

 

不登校になってからカウンセリングを受けて、とりあえず「生きよう」と思えたんです。

 

 

カウンセラーのためにも死ねない

毎日、本当に「死にたい、死にたい」と思っていて、リストカットもしてODもいっぱいして、薬を飲んだりもしていました。

 

でも、そうしている私の脇で親に「どうせ死なないんでしょ。死ぬ人間はそんなこと言わないから」と言われて、とてもショックを受けました。

 

カウンセリングを受けてからは、「カウンセラーの方たちのためにも死ねない、やっぱり生きよう」と思いました。

 

カウンセラーの方に出会わなかったら、高校も行かなかっただろうし、大学にも行けなかったと思います。

 

 

母親に「中卒で働け」と言われる

学校の成績については、妹のほうが良くて、受験シーズンになって、妹が「私立の女子大付属の高校に行きたい」と言い出したんですね。

 

母親は妹の進学にはとても乗り気になっていましたが、私には「中卒では働け」と言ってきました。

 

三者面談のときに「この子は、高校は行かせません」と母親が言ったんです。

 

そしたら担任の先生が、

 

「待ってください。ゆいさんは国語の成績はすごくいいんです。ここの高校の普通科へ行って大学の推薦ももらえるレベルです」

 

っと言ってくれて、駄目もとで高校を受けて入学することができました。

 

続きは第2回へ

 

 

赤津ゆいさん全インタビュー

【Part1】「私はいらない子」とずっと思っていた子ども時代

【Part2】自分の居場所や愛情を感じない世界で

【Part3】「諦めず、真っすぐ前を向いて生きていく」(10月31日公開)

 

 

インタビューを受けてくださる方、募集中です

臨床心理士、精神保健福祉士、看護師、保健師、産業カウンセラー、支援機関の職員など、すでに多くの方にインタビューを行っています。ご自身が、有名かどうか、権威かどうかは関係ありません。

 

また、精神疾患などの当事者の方、メンタルヘルスや人間関係でお悩みの方などのインタビューも行っております。

 

これまでの経験・取り組みや、ご自身の想いを読者に届けていただき、Remeのミッションである「こころの専門家へのアクセスの向上」「こころの健康に関するリテラシーの向上」の実現のために、お力をお貸しいただけますと幸いです。

 

 

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