12歳で摂食障害を発症し16歳で30kg以下に。寂しさや孤独に支配された苦しみ
目次
中学3年間は33kgぐらいの状態
私自身、自分がおかしいことにはとっくに気付いていました。
自分の本当の気持ちを誰かに理解して欲しくてたまりませんでした。
ある日、本屋さんで摂食障害の本を自分で買って、お母さんに「これ読んで」と渡した記憶があります。
母は頭ごなしに「食え、食え」と言うだけだったので、これを読めば私のことを少しだけでも理解してくれるかな、という期待を抱いて。
なぜここまでして痩せたがるのかを知って欲しかった。
『「食べない心」と「吐く心」ー摂食障害から立ち直る女性たち』(著:小野瀬健人) という本ですが、ご存知でしょうか。
後日、「本、読んだ?」と聞いてみました。
すると母は一言、 「読んだけど、この人の言ってること間違ってると思う」と。
悲しいですが私の想いは伝わっていなかった。
母親は自分の考えを曲げることができなかったみたいです。
体重はどんどん減って、33kgぐらいの状態で中学3年間を過ごしていました。
小学生から神奈川県立こども医療センターという病院に通っていましたが、そこでは抗うつ薬や安定剤、食欲増強作用のある薬などを処方してもらっていました。
高カロリー栄養剤も処方されていましたが、それを飲むのが本当に苦痛でした。
1mlあたり1kcalあって、一缶250ml、つまり一缶250kcal。
大げさかもしれませんが、私にしてみたらもはや毒物劇物です。
毎日毎日、それを飲むだの飲まないだの、飽きもせず母と喧嘩していました。
何だかんだ親には叶わないので、結局飲むんですけど、すごく薄めたり、出来る限り飲まないように反抗して。
ただ、その反抗が母親にとっては気に入らなくて、どんどん監視の目が厳しくなって、今度はこちらが監視される立場になっていきました。
食に囚われてるような状況で、栄養失調が続き脳へのエネルギーが慢性的に枯渇していたこともあって、私の思考回路も少しずつ鈍っていきました。
集中力がなくなり、ボーッとすることが増えていきます。
それでも頭のいい自分でいたくて勉強は手を抜きませんでした。
成績はオール5の内申点満点。優等生でい続けました。
部活も部長でしたし、図書委員も委員長でしたし、きっと完璧主義的な部分もあるんだと思います。
そうでもしないと、何か肩書きがないと、存在価値がないような気がしていました。
普通にしているだけではどこにも居場所がないと思っていたから、勉強にしても部活動にしても、ある程度のポジションに立つことで、自分で自分の価値を見い出そうとしていたような気がします。
30キロ台を切った16歳の頃
中3の受験期を迎えて塾に入ってから、症状に変化が訪れます。
受験勉強をしていても、ずーっとお腹が空いているから、「あれが食べたい、これが食べたい」ばかりが頭を支配して、全然集中できないんです。
あれだけ食べることを忘れて勉強や部活にのめり込んでいたのに。
突然スイッチが切り替わったような感覚でした。
3年間ほとんど栄養をとらなかった反動で、過食が始まりました。
塾帰りにコンビニでお菓子を買いあさって、部屋で食べる。とにかく詰め込むように食べる。気持ち悪くなっても食べる。
頭と体が乖離する感覚。 その時が、一番自分にとっては辛かったですね。
拒食のときは体重という数値で自分をうまくコントロールできていたことで、心の中ではある程度の自尊心を保っていられました。
しかし過食に転じてからは一切コントロールができなくなったことに加えて、体重が元に戻っていく。
体重がこのまま戻っても、これまで失ってきた大切なものは戻ってこない。そう考えると、体重が戻ることが恐ろしくてたまらないんです。
拒食、過食と来て次に何をするかと言ったら、吐くことを考える。
幼い時からよく吐いてしまう子ではありました。
だからなのかはわかりませんが、私は結構あっさり吐けちゃったので、もう無限ループです。
自分で自分が制御できなかったので、毎日毎日、食べたり出したり、同じことの繰り返し。儀式や習慣に近い行為です。
そんなことをやってるから、高校でも友達はできなくて、表面的な付き合いぐらいしかしていなかったです。
生きている意味あるのかな、と思っていた頃でした。
16歳の冬、体重が30kgを切りました。
その辺りから歩くことも難しくなってきました。
不思議な感覚で、歩こうとすると、身体が石みたいに固まってしまって、どう頑張っても歩けないような状態。
そろそろ死ねるのかなぁ、と期待している自分がいました。
そんな時に、自分のロッカーに、保健室の先生からの手紙がポストインされていたんです。
あとでわかったことですが、学校では、私のことは結構気に掛けられていたみたいで、
「最近、何か辛いことありましたか? 良かったら、いつでも保健室に来てくださいね」
といったことが書かれていました。
それを読んで、涙が止まりませんでした。
冷えた心に温もりが広がっていく感覚を覚えました。
「ようやく自分のことを見てくれる人が現れた」と。
保健の先生からの手紙をきっかけに、保健室登校を始めるようになりました。
それまでは、無遅刻、無欠席でした。
意地でも優等生でいたいという思いが多少なりともあったんです。
歩くのが大変なときは、1時間かかる通学時間が2時間ぐらいになりましたが、もう執念でしたね。
保健室には私のほかにも何人かの生徒が通っていたのですが、保健室で何をするでもないんです。一緒にお昼休憩したりといった感じです。
その時は保健室での時間が救いで、ようやく居ても許される場所が見つかったように思えましたた。
意識障害が起こるレベル
ただ、もう体が限界で、何をどう頑張っても体重が落ちてしまうような状況でした。
1日で3kgぐらい減った日もあって、階段も登れなくなりました。
さすがにまずいんじゃないか?という認識はもちろんありました。
その一方で、このまま体重が10kgになり、5kgになり、0kgになって、消えちゃうのも良いかもしれないとワクワクする自分もいました。
死にたいという感覚はなかったんですけど、このまま重力的に存在しない人間になって、フッて消えられたら良いのに、って。
なんとかキープしていた体重もどんどん減っていき、年が明けてから体重を測ったら、24kgになっていました。
前々から病院では、「33kgを切ったら入院」と言われていて、明らかにデッドラインを割っています。
さすがに、もう抵抗するのはやめようと思いました。
当時、親は朝起きたら私がもう目を覚まさないんじゃないか、と不安になる日々だったらしいです。
親はもう腫れ物に触るというか、手が付けられない状況だったと思います。
実際に日常的な会話はほとんどありませんでした。
逆に、あの時こうして欲しかったということも特にないんです。
私にとっての母親と父親は、「理解者にはなってくれない存在」と思ってましたし、諦めていました。
別に、あなたたちに何かを求めてはいないという感じでしたね。
入院後、採血をしたら内臓に問題があることが分かりました。
肝臓の数値が特に危険で。AST、ALT、γ-GDP…通常の数値が数十程度の項目で、全部4桁オーバー。
なにかの間違いじゃないかって再採血されたぐらいです。
さらに、血液中の白血球や血糖も通常の数値の半分以下。意識障害が起こってもおかしくないレベルだったそうです。
幸いにも、脳は委縮してないので良かったのですが、「本当にあと一歩だった」と言われました。
本当にしぶといというか。自分で自分に驚きました。
3ヶ月間の入院で前向きに
それから、約3ヶ月の入院生活が始まりました。
入院中、2ヶ月はベッドの上から一歩も動いてはいけない時期があったので、ずっとベッドの上で過ごしました。
ご飯を食べて寝る。絶対に動いてはならない。それが治療だったのです。
トイレにも行ってはだめで、看護師さん呼んでポータブルトイレを設置してもらっていました。
窮屈な生活がいやで、最初の頃は、周りの人に反発するような態度を取っていたこともありました。
しかし、1,2週間ぐらいすると、今まで0だった栄養が体に入ってきて、だいぶ脳がクリアになったのか、そこまで抵抗がなくなってきたんです。
治療に前向きになれた瞬間でした。
ただ、体重は思ったよりも戻ってくれませんでした。
先生や看護師さん曰く、
「まず、傷付いた肝臓の修復や免疫細胞の増殖に、全部栄養が使われる」
「体重が増えるのはそれが改善した後だから、そんな簡単には増えない」そうです。
当時の私は、早く元気になって退院したい気持ちと元に戻りたくない気持ちに揺れ動いて、毎日毎日「怖い、怖い」と怯えていたらしいです。
最も怖かったのは、それでも体重が増えることでした。
「なんで増えるのが怖いの?」と聞かれても、うまい答えは出てきません。
なぜか、「体重が一度減ってしまったら元に戻してはいけない」と信じきっていて、そのルールに縛られているんです。
回復することが怖かったのかもしれません。
退院を嫌がってた理由のひとつに、あの家に戻りたくないという気持ちもあったと思います。
入院中も散々夫婦で揉めていましたし、 母親は父に状況を一切伝えないし、我関せずだった父は父で、「なんで母は俺に何も言ってこないのか」と、すれ違っていましたね。
入院中、母親と父親が2人でお見舞いに来てくれたことがありました。
その時に、私が幼少期からずっと疑問に思ってたことをふと聞いてみたんです。
「なんでそんなに仲悪いの?」 「なんでもっと仲良くなってくれないの?」 って。
「そんな所に帰りたくない」みたいなことも言ったかもしれません。
今までずっと言えなかったので、発言する瞬間実はすごく勇気がいったんです。
でも、それを伝えてから、ちょっとだけ2人が仲良くしてくれるようになりました。
その後、よく2人でお見舞いに来るようになって、3人でお昼ご飯を食べたりもしました。
お母さんが膝を痛めていて、うまく歩けないときはお父さんが先導して座らせる優しい一面を見ることもできたり。
入院中、記憶の中で初めて、私と父と母と3人で何かをしている時間が生まれたのです。
そして、それがすごく居心地よかったのを覚えています。
「このままずっと、お母さんとお父さんが仲良くしてくれたら良いのにな…」
16歳になっても、幼少期に抱いていたその気持ちに変わりはありませんでした。
恐らく、これからもずっと。
吐きたい欲求がなくなった
入院してから3ヶ月半経ち、体重が10kgほど増えて33kgぐらいにまで戻ってきました。
当時は高校生でしたし、3ヶ月も入院をしていると「学校に行きたい」と思うようになってきました。
ちょうど進級の季節。高校2年の新学期を迎えるタイミングで退院が決まりました。
退院に向け医者からは「まだまだ身体は栄養不足だから、こまめに食べるように」といった生活指導を受けました。これがゴールではない、と。
入院中の3ヶ月間はずっと吐かない生活を送っていました。
嘔吐の習慣を是正して生活習慣が正しく改善されたことと、親や治療者と対話して気持ちをぶつけ合ったことで精神的にも肉体的にも安定したため、体重が少しずつ増えつつも、吐きたい欲求はもうなくなっていたんです。
そして、体重が増えることがあれだけ嫌だったにも関わらず、体重が増えていく自分を受け入れることもできるようになっていました。
今までは食べることが怖かったけれど、頑張って食べてみよう、人と一緒に食事をしてみよう、など気持ちに前向きな変化が起こりました。
人生をリセットできたんだと思います。入院生活で。
退院後には、進路のことも考えるようになっていました。
実は、高校入学当初は看護師を目指していたんです。
それで高校1年の時は理系を選択していましたが、入院中に看護師さんと接する中で、
「私が誰かを看護できるほどの精神の強さと体力を持ち合わせているのか」
と思うようになって、文転して進路を変更することを決めました。
現実的な選択をしたつもりですが、妥協の思いも当時はあったかもしれません。
でも、これで良かったのだと思います。
このとき夢を諦めなければ、今の道を歩むこともなかったでしょうから。
高校2年になって、すごくお世話になっていた保健室の先生が転任してしまったんです。
新しい保健の先生も悪い先生ではなかったんですけど、寂しく寂しくて。
その後は保健室ではなく図書館に行くことが増えていきました。
図書館では、自分の病気に関する本を読んだり、自分のやりたいことって何だろうと考えたりして過ごしていました。
将来どんなことをしたいかは、まだ特にはっきりとしたものはありませんでした。 当初は大学に行くつもりもなくて。受ける前から諦めていましたから。
「じゃあどうするの?」って言われても、よく分からず…。
ただ、3ヶ月前まで死ぬか生きるかの境目を彷徨っていた自分に比べたら、幸せな悩みだなぁと思えてくるんです。
だって今の悩みはより良く生きる為の悩みであって、生きる選択が前提なのだから。
「とりあえず、1日1日をちゃんと生きてる」
今はそれで良いです。当たり前なのですが、これって実は凄いことなんですよね。
病気は常に一緒に行動する相棒
大学に行こうと決めたのは、高校3年の5月頃でした。
きっかけは母の言葉。
「高校時代に満喫できなかった普通の学生生活を大学で過ごして欲しい」と言われたことがきっかけで考え直して予備校に通い始めたんです。
勉強を始めたは良いものの、摂食障害は完治の難しい病気で、ちょっとしたきっかけですぐに症状がぶり返してしまいます。
結局、受験期のストレスで一時的にまた入院前のような状態に戻ってしまいました。
ある日突然、衝動が起こって、行動に出て、浄化して。ああ何してるんだろうと自己嫌悪して、その繰り返し。
ちょっと分かりにくいかもしれませんが、もうずっと病気の魂が肩に乗っているような感覚です。
嬉しいときも辛いときも常に一緒に行動している感じがしますね。
辛いとき、最も自分に寄り添い共感してくれるのはこの子なんだって。病気だけど相棒みたいな存在なのかもしれません。
そんなちょっと厄介な相棒とともに受験を終え、無事志望校に合格して大学に入学しました。
大学でようやく、友達関係をそれなりに築けるようになって、初めて恋人ができたりもしました。
その間も症状が良くなったり、悪くなったりを繰り返しながらではありましたが、大きく身体の不調が起こることはありませんでしたね。
体重が減り過ぎることもなく、はたから見たら全然病人じゃない時期でした。
ただ、突然、すごく気分が落ち込んだりするときは、どうしても病気に頼ってしまいます。
一通り終えた後で「やっぱり人とは違うんだな」と絶望した数は数え切れない程です。
家族の反応も変化を見せ始めました。 親や兄弟も、私の病を受け入れるようになったというか、理解したというか。
おそらく、ちゃんと理解はできないんだろうけど、「この子はそういう子なんだろうから仕方ないね」と捉えてくれていたのかも。諦めもあったと思います。
病気への理解者はいなかった
発病してから現在に至るまでの15年間、ほとんど理解者はいなかったです。
いなかったんですけど、もはや摂食障害がアイデンティティになってしまったのか、不思議と自分の状態を隠さなくなりました。
「聞いてみんな、私、こういう病気なんです」って大々的に言うことはないけど、会話の中のふとした瞬間にカミングアウトしてみることは増えていきました。
仲の良い友だちに素を見せられるようになったことが、むしろ自分自身を見つめ直すきっかけになったり、原動力になっているように感じています。
病気のことを隠さずにいこうと決めてから、摂食障害である自分が前ほど嫌いではなくなりました。
むしろ、誰かに聞いてもらうだけで、結構楽になったりするんです。モヤモヤを発散できるんですよね。
…ってことに、この歳になってようやく気づきました。
ほとんどの人は、解決しなくても誰かに言うとちょっと楽になるじゃないですか。
多分、カミングアウトもそれと同じような原理だと思っています。
私は、摂食障害を完治させることは極めて困難だと思っています。
もちろん、治る人もいるけれど、私みたいにこじれた場合は尚更難しいのかなって。
だったら事実を受け入れて一緒に生きるしかないんですよね。
だから、「摂食障害が私のアイデンティティの一部なんです」っていう風に発信しちゃったほうが楽になるかなって思ったんです。
今回のインタビューも、自分がそもそも病気になったことで、 「この病気をもっと知って欲しい」「発信したい」という原動力から実現できたと思っています。
医療×ライターの仕事との出会い
話は大学時代に戻りますが、就職活動は受験以上に大きなストレスでしたね。
世の中的にも厳しいタイミングだったこともあり、ことごとく不採用。
胃が痛くなって食べられなくなっていった時期もありました。
なんとか入社することになったのは、Webサイトを運営する小さな企業。私はライター兼企画として採用頂きました。
記事1の冒頭で少し触れましたが、書くことが好きなんです。
小4の頃から小説を書いていましたし、高校でも文芸部で小説を書いたり、詩集を出したり。
何かを発信できる仕事は良いなと思って入社したものの、打たれ弱かったところがあって、うつ状態になってしまいました。
社長は普段はとても朗らかだけど仕事のことには厳しい方でした。
直々に指導を受けたり、怒られたり、自分の甘さを痛感して、悔しくて、またどんどん自分が嫌いになっていきました。
そのうち、仕事している間の記憶が飛ぶようになってきて、ああ限界かもしれないと悟りました。
精神科へ行ったら、お医者さんに「辞めたらいいよ」って言われて。それからすぐに報告し、退職することになりました。
親も、私がかなり疲弊し憔悴していたのは知っていたので、「すぐに仕事を探さないで少し休んだら?」と言ってくれました。
でも休んだら、絶対また引きこもって食べ続けちゃうのは分かっていたので、二週間後に転職を決め資格の勉強を始めました。
最初の会社では挫折しましたが、やっぱり発信したり、書く仕事がしたいという気持ちはありました。
そしてできれば、摂食障害と関連する医療分野でのライティングを希望して、仕事を探していたときに見つけたのが、あるベンチャー企業でした。
当時は、生まれたての会社でした。一般社員はまだいなかったんじゃないかな。
面接の時に「摂食障害で入院していたことがあった」ということを正直に話してみたところ、すごく理解を示してくれて驚きました。
その後、入社を決めました。
そして、その会社での経験は、間違いなく人生の糧になっていると思います。
社会的に自分が必要とされていると思うことができたのが、その会社だったんです。
今も在籍している元同僚の人からたまに連絡をいただきますが、
「理子さんには良い報告がしたいから頑張るよ」
って言ってもらえるのは、やっぱり嬉しいですよね。
そういう意味でも、その会社で初めてまともに自分の社会的価値を見い出せたんじゃないかと思っています。
当時の摂食障害学会の会長さんに取材する機会を持てたり、いちからウェブメディアを作っていくことに携われたり、本当に初めての体験をいっぱいさせてもらいましたね。
病気で自分を責める必要はない
変な言い方かもしれませんが、「頑張らないことを頑張る」。
これまで、相当無理をして良い子になってたので(笑)
頑張って自分を作ろうとしない。 良い子になりすぎない。
等身大の自分でいることを大切にしています。
「別に休んだって良いじゃん」
「疲れたら寝坊したって良いじゃん」
今ではこう思えるようになってきたかなと思っています。
摂食障害である自分を良いとは思っていないけれど認めてはいる。そんな感じです。
これは私の経験からになりますが、過食してしまう方は、その行動が必ずしも全てマイナスじゃないと思って欲しいなと思っています。
「もし、過食がなくなったら、次は別の行為であなたの心のモヤモヤを出すことになる。それは、もしかしたら他人を傷付けることかもしれないし、自分を直接身体的に傷付けることかもしれない。もっとひどいことかもしれないから、無理に止めないほうが良い場合もある」
これは実際に私が医師からもよく言われてきたことなんです。
もちろん、あまりにも自分でコントロールできなくて、昔の私みたいにどんどん体重が減ってしまっている状態ならすぐにでも病院に行ったほうが良いと思います。
私自身も、入院して症状が安定したのに、またぶり返しちゃった時は、「なんだ、結局治らないんじゃん」って絶望したこともありました。
ただ、自分を保てていて社会生活を送れているのなら、「それはすごいですよ」って言いたいです。
病気のことで自分を責める必要は一切ないですし、周りの友だちもちゃんと伝えれば、受け入れてくれる人は自分が思っている以上にいるってことはぜひ知ってもらいたいですね。
寂しい感覚がこの病気を支配している
これからのことですが、いつか、摂食障害のことをはじめ、経験してきたことをもっともっと発信する人間になりたいなと思っています。
拒食症や過食症の人って、世界でひとりぼっちみたいな孤独感を抱えている人が多いと思うんです。
寂しいという感覚が、一番この病気を支配していて、孤独で、寂しくてしょうがない…。
それで食べ物は裏切らないから、食べ物に意識が向いていく一面もあると思います。
でも、本当に1人なわけではないし、あなたを気にかけてくれている人はきっといると思うんです。
私も、保健室の先生から手紙をもらって、学校が動いてくれたのを見て、「誰かしらが必ず見ててくれている」と思えたんですよね。1人じゃないんだなって。
だからこそ、いつか私自身が今困っている人の味方になって、役に立てるような存在になれたらいいなぁと思っています。
あとは、この病気になってから、すっかり小説を書くことから遠ざかっています。
なので、いつかまた小学生の時みたいに、いっぱいいろんな小説を書きたいなって思いますね。
おばあちゃんになってからでも良いですし。まだまだ長い人生なので。
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- 本記事は2018年6月24日に公開されました。現在の状況とは異なる可能性があることをご了承ください。