統合失調症と社労士の二刀流。自分の活躍が誰かの勇気に

2018.08.24公開 2020.05.17更新

約100人に1人の病気と言われる統合失調症。

 

決して珍しい病気ではありませんが、まだまだ統合失調症に対する誤ったイメージや偏見も存在します。

 

今回のインタビューは、統合失調症当事者であり、社労士として活躍する関村友一さん。

 

同じような境遇の人に少しでも勇気を持ってもらえたらと話す関村さんに、これまでどのようにして統合失調症と向き合ってきたのかを伺いました。

 

統合失調症をオープンにする理由

今は統合失調症当事者として社労士の仕事をしていますが、最初からオープンだったわけではありませんでした。

 

働き始めてから、障害や疾患の有無を開示するかどうかで用いる「オープン」「クローズ」という言葉があること自体に疑問を持つようになっていました。

 

統合失調症をオープンにしたらできなくなってしまうことがあったり、クローズにしたら息苦しくなってしまったりすること自体が違うなと。

 

しかし実態として、自身の統合失調症について声を上げられない方が多い面もあります。

 

であるならば、そういった方たちの声を代弁していきたい思いから、声を上げるようになっていきました。

 

社労士でありつつも、自分のやりたいことはメンタルヘルスに対する理解を促すことです。

 

なので、統合失調症であることをオープンにしながら社労士として働くことはとても自然なことでした。

 

実際に社労士として働いて、年金事務所の人にも「オープンにしたら?」と逆に提案されたこともあり、その何気ない一言からも「大丈夫、いける」という気持ちを持てました。

 

統合失調症であることをオープンにしたほうが、自分のことが皆さんに伝わりやすいと思いますし、統合失調症には未だに偏見や根強い差別があります。

 

そういった現状に対して、先陣を切ってやっていきたいなという思いがあります。

 

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統合失調症と気づいたとき

「統合失調症かもしれない」というのは高校生の頃からありました。

 

電車に座っていて、「あの人から見られてる、この人から見られている」と感じることがあったり、考えがまとまらず勉学に集中できないことがありました。

 

学校でも周囲からの視線を防ぐために、勉強している時も突っ伏すようにしていました。

 

そういった状態が続いていたので、「もしかしたら精神病院に行くのかな」と思うようになっていました。

 

もう20年以上前の話ですけど、私が高校生の頃に抱いていた精神病院のイメージは良くありませんでした。

 

檻に入れられたり、鍵を閉められて閉じ込めらたり…そんなイメージを持っていました。

 

なので、状態としてしんどさはあるものの、「まさか自分がそんな所に行かないだろう」という気持ちもどこかにありました。

 

そしてその頃、大学受験を迎えていました。

 

通っていた学校では、受験直前の3ヶ月間は学校に行かなくて良いところでした。

 

家であれば誰にも見られないですし、1人の世界で外からの刺激を受けることもないので、精神も安定してきて良いことばかりでした。

 

おかげで、その3ヶ月間はすごい勉強に集中でき、成績もどんどん上がって、第一志望の慶應義塾大学に合格することができました。

 

入学後、実は1年生を3回やったのですが、最初の1年目は遊んでましたね。笑

 

当時は金髪にしたり、真っ黒に日焼けしたり。

 

コンパにも誘われることが増え、勉強が疎かになってしまい、単位を落として留年してしまっていました。

 

そして、留年した年に統合失調症を発症しました。

 

自分の噂や罵倒する声が聞こえるようになってきたんです。

 

「何だろうな」と思っていたのですが、家に帰っても同じような声が聞こえていました。

 

それこそ最初は、神様のお告げかな?くらいにしか思ってなかったんです。

 

ただ、だんだんとネガティブな声がひどくなってきて、眠れない日が続きました。

 

 

幻聴のつらさ、医療保護入院

その当時、冷戦が終わって少し経ったくらいの時期で、レーガン大統領とゴルバチョフ書記長と僕の三者会談をやったこともありました。

 

もちろん幻聴です。

 

今だから笑い話になるかもしれません。しかし当時は、真面目に考えてしまっていましたね。

 

さらに、隣の家に住む人からの罵声の幻聴も聞こえてくるようになって、その声があまりにうるさくて、隣の家に怒鳴り込みに行ってしまうこともありました。

 

見かねた父親に「病院、行くか?」と言われて、「精神病院なんて嫌だ」と思ったのですが、もうどうしようもなかったですね。

 

父親と話し合って、結局、医療保護入院をすることになりました。

 

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精神病院に対するネガティブなイメージがあったので入院当初は怖かったですが、思っていたよりも自由がありました。

 

ただ、幻聴自体はずっと続き、高校生の時に恋い焦がれてた女性の先生の声も聞こえるようになりました。

 

そして、その先生が「私、どうしようもないから自殺する」と言う声が聞こえるまでになってしまったんです。

 

幻覚なんですよね。全部。全部幻覚なんですけど、当時は現実だとばっかり思っていました。

 

現実と幻覚の認識が本当にあやふやだったので、病棟内でパニックを起こすまでになっていました。

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近藤雄太郎

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  • 本コンテンツは、特定の治療法や投稿者の見解を推奨したり、完全性、正確性、有効性、合目的性等について保証するものではなく、その内容から発生するあらゆる問題についても責任を負うものではありません。
  • 本記事は2018年8月24日に公開されました。現在の状況とは異なる可能性があることをご了承ください。