統合失調症と社労士の二刀流。自分の活躍が誰かの勇気に【関村友一さん】

シェア
ツイート
はてブ
あとで見る

約100人に1人の病気と言われる統合失調症。

 

決して珍しい病気ではありませんが、まだまだ統合失調症に対する誤ったイメージや偏見も存在します。

 

今回のインタビューは、統合失調症当事者であり、社労士として活躍する関村友一さん。

 

同じような境遇の人に少しでも勇気を持ってもらえたらと話す関村さんに、これまでどのようにして統合失調症と向き合ってきたのかを伺いました。

 

 

統合失調症をオープンにする理由

今は統合失調症当事者として社労士の仕事をしていますが、最初からオープンだったわけではありませんでした。

 

ただ、働き始めて、障害や疾患の有無を開示するかどうかで用いる「オープン」「クローズ」という言葉があること自体に疑問を持つようになっていました。

 

統合失調症をオープンにしたらできなくなってしまうことがあったり、クローズにしたら息苦しくなってしまったりすること自体が違うなと。

 

しかし実態として、自身の統合失調症について声を上げられない方が多い面もあります。

 

であるならば、そういった方たちの声を代弁していきたい思いで、私自身、声を上げるようになっていきました。

 

社労士でありつつも、自分のやりたいことはメンタルヘルスに対する理解を促すことなんですよね。

 

なので、統合失調症であることをオープンにしながら社労士として働くことはとても自然なことでした。

 

社労士として働いて、年金事務所の人にも「オープンにしたら?」と逆に提案されたこともあり、その何気ない一言からも、「大丈夫、いける」という気持ちを持てました。

 

統合失調症であることをオープンにしたほうが、自分のことが皆さんに伝わりやすいと思いますし、統合失調症には未だに偏見や根強い差別があります。

 

そういった現状に対して、先陣を切ってやっていきたいなという思いがあります。

 

061

 

 

統合失調症かもと気づいたとき

高校生の頃からありました。

 

電車に座っていて、「あの人から見られてる、この人から見られている」と感じることがあったり、考えがまとまらず勉学に集中できないことがありました。

 

学校でも周囲からの視線を防ぐために、勉強している時も突っ伏すようにしていました。

 

そういった状態が続いていたので、「もしかしたら精神病院に行くのかな」って、その時から思っていました。

 

もう20年以上前の話ですけど、私が高校生の頃に抱いていた精神病院のイメージは良くありませんでした。

 

檻に入れられたり、鍵を閉められて閉じ込めらたり…そんなイメージを持っていました。

 

なので、状態としてしんどさはあるものの、「まさか自分がそんな所に行かないだろう」という気持ちもどこかにありました。

 

 

大学入学後、統合失調症を発症

その頃、大学受験を迎えていました。

 

通っていた学校では、受験直前の3ヶ月間は学校に行かなくて良いところでした。

 

家であれば誰にも見られないですし、1人の世界で外からの刺激を受けることもないので、精神も安定してきて、良いことばかりでした。

 

おかげで、その3ヶ月間はすごい勉強に集中でき、成績もどんどん上がって、第一志望の慶應義塾大学に合格することができました。

 

私、実は1年生を3回やったのですが、最初の1年目は遊んでましたね(笑)

 

当時は金髪にしたり、真っ黒に日焼けしたり。

 

コンパにも誘われることが増え、勉強が疎かになってしまい、単位を落として留年してしまっていました。

 

そして、留年した年に統合失調症を発症しました。

 

自分の噂や罵倒する声が聞こえるようになってきたんです。

 

「何だろうな」と思っていたのですが、家に帰っても同じような声が聞こえていました。

 

それこそ最初は、神様のお告げかな?くらいにしか思ってなかったんです。

 

ただ、だんだんとネガティブな声がひどくなってきて、眠れない日が続きました。

 

 

幻聴のつらさ、医療保護入院

その当時、冷戦が終わって少し経ったくらいの時期で、レーガン大統領とゴルバチョフ書記長と僕の三者会談をやったこともありました。

 

もちろん幻聴です。

 

今だから笑い話になるかもしれません。しかし当時は、真面目に考えてしまっていましたね。

 

さらに、隣の家に住む人からの罵声の幻聴も聞こえてくるようになって、その声があまりにうるさくて、隣の家に怒鳴り込みに行ってしまうこともありました。

 

見かねた父親に「病院、行くか?」と言われて、「精神病院なんて嫌だ」と思ったのですが、もうどうしようもなかったですね。

 

父親と話し合って、結局、医療保護入院をすることになりました。

 

018

 

 

現実と幻想の境界があやふやに

精神病院に対するネガティブなイメージがあったので、入院当初は怖かったですが、思っていたよりも自由がありました。

 

ただ、幻聴自体はずっと続き、高校生の時に恋い焦がれてた女性の先生の声も聞こえるようになりました。

 

そして、その先生が「私、どうしようもないから自殺する」と言う声が聞こえるまでになってしまったんです。

 

幻覚なんですよね。全部。全部幻覚なんですけど、当時は現実だとばっかり思っていました。

 

現実と幻覚の認識が本当にあやふやだったので、病棟内でパニックを起こすまでになっていました。

 

 

「幻聴は病気」の一言で我に返る

パニックを起こした私に主治医の先生が駆け寄ってきて、「落ち着いたら、電話ボックスに行こう」と言ってきたんです。

 

「今から学校に電話してみよう」と。それで主治医の先生から受話器を替わってもらうと、その先生が出たんです。

 

「先生、自殺とか考えていましたか?」と聞いたところ、「全然考えてないよ」と。

 

「え?さっき言わなかった?」「これからは?」って聞いたら、「今も、これからもないよ」と諭されて。

 

電話を切った後、主治医の先生に「関村君、さっきのは現実じゃないんだよ」と初めて知らされました。

 

いきなりそんなことを言われても、聞こえてくるものが全部現実だと思っているから、「そんなことない」と大抵の人は信じないですよね。

 

「確かに先生はそう言ったけど、そんなことはない。隠してるだけだ」と。

 

でも、そこで僕は先生の言葉をすんなり受け入れることができたんですね。

 

さらに「幻聴は病気なんだよ」と主治医の先生が言ってくれたことで、我に返れたというか、気が付いたというか。すごく軽くなったことを覚えています。

 

全部現実のものだと考えこんでしまってた自分と、その思い込みが取り除かれた自分は全然違うもので、精神的にすごく軽くなりました。

 

001

 

 

主治医の先生に出会えた今がある

実は、自分が統合失調症であることを知ったのはもっと後のことです。初診時には「心因反応」と言われていたんです。

 

最初から統合失調症(※当時の名称は精神分裂病)と主治医から伝えられなかった理由は分かりません。

 

30歳前後になって、ネットで幻覚・幻聴を検索したら「統合失調症」と出てきて、「あれ?これ、俺のことじゃない?」となったんですね。

 

入院から10年以上経った後でしたが、当時の先生に「私は統合失調症ですか?」と聞いてみたんです。

 

すると「そうだよ」とあっさり言ってくれて。最初から言ってくれよみたいな(笑)

 

でも、良かったです。主治医の先生はすごくハードワークする方で、夜中も車を運転して病棟に来て「どう?」と言ってくれたり、色んなアドバイスをくれたので良い先生に出会えたと思っています。

 

主治医以外の先生ともロックの話で盛り上がったり、仲良くさせてもらって、こんな言い方は良くないかもしれないですけど、入院生活は心地良かったです。

 

あの先生達がいなかったら、今の自分はいないだろうなと思いますね。

 

 

「私たちの星になってよ」

入院生活中は、同世代の友達が多かったこともあり、テレビなど共通の話で盛り上がることが多かったですね。

 

オセロが得意で、病棟に来ていた研修医の学生さんや看護学生さんとオセロをする時間がとても楽しくて。

 

入院している方の中には、画家のおじいさんもいて、うつ病だったと思うのですが、私の入院中だけでも入退院を2,3回繰り返していました。

 

僕が退院する時でしたが、そのおじいさんに「関村君は優秀だから、私たちの星になってよ」と言われたことはずっと覚えています。

 

社労士として開業した時も、「私たちの星になってよ」と言ってくれたおじいさんの言葉が背中を押してくれた部分があると思います。

 

 

退院後、色んなことが逆戻りに

退院後、それはもう大きな変化でしたね。

 

入院生活があまりに心地良過ぎて、退院後の生活との落差が大きく、日常生活がまたおかしくなってしまいました。

 

20年以上前の話ですから、退院後のサポートがあまり整ってない時代でもありました。

 

朝夜が逆転したり、病院でできていたことができなくなって、色んなことが逆戻りになってしまって…。

 

大学にも復学しましたが、友達も統合失調症に対する理解がほとんどない状況でしたね。

 

退院後、両親との関係も複雑なものになりました。

 

私の小さい頃はすごく良い夫婦でした。「僕も大きくなったらあんな夫婦になりたいな」というくらいの理想の夫婦だったんです。

 

子供の頃に誕生日会を開いてくれて、友達を呼んでたくさんの料理を振舞ってくれたり、本当に愛情を注いでくれたんですよね。

 

ただ、その頃からずっと母には幻聴があったんです。

 

「隣の〇〇さんが私達に暴力振るおうとしてる」

「私達は四面楚歌だから気を付けな」

 

といったことを子どもの私に言ってくるわけです。

 

子どもだった私は、お母さんの言うことは絶対と思っていたので、幻聴なんて思いもせず「そうなんだね」と否定せずに聞いていました。

 

ところが、僕自身も幻聴が聞こえたり、そのせいで入院を経験するようになった時、なんとなく分かってきたわけですよ。

 

もしかしたら、母親も僕と同じ病気なのかもしれないと。

 

それで現実が分かってしまったというか、母との関係が冷めていってしまった面もあります。

 

ただ、当時は学生で、実家住まいだったので、母の話にもどうにか付き合わなきゃという感じで過ごしていたので、少しずつ負担に感じることがありました。

 

051

 

 

続かない仕事、社労士との出会い

大学を卒業後は、SEをやっていたのですが、入社して3ヶ月で辞めてしまいました。

 

経済学部出身でSEになることが当時は畑違いだったのかもしれませんが、働く面でも色々と大変でしたね。

 

入社したての頃から「これぐらいできるか」って上司や先輩からバーッと言われるわけですよ。

 

できないと、「なんで、こんなことができないの?」という目で見られたり。

 

私自身、統合失調症を抱えているので無理はできなかったですし、でも職場に統合失調症のことは言えないし…という八方塞がりのような状態でした。

 

統合失調症と言っても理解されないだろうなと思っていたので、就職活動の時から、クローズで進めていて入社した会社にも伝えることはありませんでした。

 

その結果、どんどん折り合いがつかなくなって辞める…ということを2,3社経験しました。

 

3社目を辞めた頃、妄想や幻聴がどんどん出てきてしまって、「これからどうすればいいのか」と悶々としていました。

 

次はどうしようかなと考えていた時に、ふと郵送物の中に社会保険労務士のパンフレットが目に入ってきたんですね。

 

そのパンフレットを読みながら、「3社も辞めちゃったし、資格を取って仕事でも良いかな」という思いを抱くようになりました。

 

早速、本屋へ行って、社労士に関する本を読んで「面白そう、勉強できそう」と思ったことが、社労士を志すに至ったきっかけです。

 

あと、社労士の試験問題が全部マークシートだったので、これはできるかなと(笑)

 

それから4年かけて、社労士には無事合格することができました。

 

 

理解ある父が変わってしまった

当時、私はパートで介護の仕事を始めていたものの、病気を抱えていましたし、母親の妄想も相変わらずでした。

 

そういった状況に当初は理解のあった父でしたが、「この家、嫌だ」と言って夜な夜な出歩くようになってしまったんです。

 

父のお酒はどんどんエスカレートして、ついには暴力になってしまったんです。僕と母親に対して。

 

父親を見かねた母親がナイフを出して威嚇するようなことも起きて、本当にゴタゴタになりました。

 

僕が両親の仲裁に入ろうとすると、父親に思いっきりいろんな箇所を殴られて、顔中血だらけ。

 

どうしようもなくなってしまって、警察や近くに住む叔父さんを呼ぶほどの状況でした。

 

その時、叔父さんからは「もう、あの家を出たら?」と言われました。

 

僕としては納得いかない部分もありましたが、両親と距離を置いたほうが良いなと思う部分もあって、一人暮らしをするようになりました。32,3歳の頃だったと思います。

 

 

愛情を注いでくれた親への想い

警察沙汰になって距離を置くようにはなったものの、両親が私に対して愛情を注いでくれた思い出はずっと心の中にあるんですよね。

 

中学から私立に入れさせてもらえて、第一希望の大学にも行けました。教育熱心だった母親はすごくたくさんの愛情を注いでくれました。

 

その一方で、妄想や幻聴に苦しむ母、お酒で暴力まで振るうようになった父の姿。

 

自分の両親であることには変わりないものの、子どもの頃の姿から変わってしまった両親に対する葛藤は未だにあります。

 

統合失調症を取り上げた『我が家の母はビョーキです』という漫画があって、主人公のお母さんも統合失調症なんですね。

 

そのお母さんが筆者に対して、

 

「あなたを産んだ時が、一番私にとって幸せだったよ」

 

と言う一コマがあるのですが、同じことを僕も母から言われたことがありました。

 

「あなたを産んだ時が私にとって、人生の中で最高の瞬間だった」って。

 

率直な思いを言ってくれた母との思い出もありますし、でも今は距離を置いたほうが良い状況でもあり、どうしようもできない自分がいたり、日々葛藤ですね。

 

052

 

 

3年半続いた介護の仕事

先に少し触れましたが、社労士の資格勉強中は、介護の仕事も並行していました。約3年半続きました。

 

最初は極端な話、おじいちゃんやおばあちゃんの話を聞いていれば良いのかなと思っていましたが、実際は全然違って(笑)

 

働き始めた頃は、統合失調症のことを周囲に伝えていませんでした。

 

週3,4のパートで働いていたのですが、体調の波があって、月に1,2回は休んでいましたし、休みがちになることもありました。

 

すると、周囲からも「どうしたの?」って疑念を抱かれて、このままクローズでいくべきかと悩んでいました。

 

その当時、通っていたカウンセリングの先生にも相談しましたが、きっと理解があるだろうと思って、打ち明けることにしたんです。

 

仲の良い後輩から、「実はこういう病気で…」と伝え、徐々に広めていきました。

 

僕と同い年の上司にも伝えたところ、「実はね、そういうの病気を持ってる人、他にもいるよ。だから大丈夫」って言ってくれて。

 

理解ある人たちに囲まれて仕事ができたことは本当に良かったですね。

 

 

統合失調症をオープンにして

統合失調症をオープンにしてから、職場での気遣いを感じることはありました。

 

ただ、明らかに変わったというよりも、普段の仕事の中で「大丈夫?」といった声掛けが増えたり、自然な感じで気遣ってもらえたのは良かったです。

 

社労士試験に合格し、開業を始めたタイミングで辞めることになりましたが、介護の仕事は現在の自分の核になっていると感じています。

 

普通に大学を卒業して普通のサラリーマン生活をしていたら、あのような貴重な経験はできなかった。

 

生と死を見つめる特別養護老人ホームという職場で働けたことは私にとって、かけがえのない経験でした。

 

016

 

 

メンタルヘルスに取り組む社労士

社労士としてすでに開業していましたが、並行して年金に関して経験を積もうと横須賀年金事務所で約2年間、働かせてもらいました。

 

労働基準監督署にも1年ほどいましたが、このまま年金事務所にいたら、「精神障害者のための社労士」という自分の存在意味がなくなってしまうように感じるようになりました。

 

年金事務所を2年間で思い切って辞めて、開業の仕事に専念することにしました。

 

「波に乗れないのならば、波を作ってしまおう」と開業を決意したこともあり、抵抗はなかったですね。

 

自分のやりたいことはこれだと思っていたので。

 

私自身、障害年金に力を入れているのですが、年金の仕組みは勉強していなければ分からない分野とも言えます。

 

主治医の先生も年金に関しては必ずしも詳しいわけではないので、そもそも障害年金の存在を知る機会が限られているんですよね。

 

さらに、障害年金を申請してから受給までは、社労士にサポートしてもらいながらの場合で、3、4ヶ月くらいです。

 

ご自身だけで手続きを行う場合は、もう少し期間が必要かもしれません。

 

申請するにあたっては、「初診日」が重要で、初診日がはっきりしてれば、比較的順調に手続きが進みますが、初診日の特定から必要な場合、それだけで時間ががかかるケースもあります。

 

なので、特に自分一人で手続きを進める方で、途中で挫折して諦める人も案外多いんです。

 

受給できる権利があって、実際にきちんと申請すれば障害年金を受給できるのに、途中で諦めてしまうことほど、もったいないことないのではないでしょうか?

 

障害年金は障害者にとっては権利です。

 

日常生活を送る上で十分な金額ではないかもしれませんが、知ってると知らないのでは大違いなので、もっとPR・広報に取り組んでいきたいですね。

 

 

当事者としての2つの取り組み

当事者として、一つは横浜ピアスタッフ協会(YPS)を通じて活動しています。

 

精神障害者の仲間同士で集まったり、大学へ行って講演をさせてもらうこともあります。

 

あとは、医師向けの統合失調症のガイドラインで結構分厚くて難しい内容のものがあるのですが、それを患者さん、支援者さん向けに分かりやすく作る活動にも参加しています。

 

また、YPSとは別で「こどもぴあ」という団体でも活動しています。精神疾患の親を持つ子供のコミュニティですね。

 

一般的な家族会に行ってみると、「精神疾患の子供を持つ親」の集まりであることが多いと思います。

 

現実には精神疾患の親を持つ子供もたくさんいるんですが、なかなか外に出て誰かとつながる機会も少ないので、世の中的にも知られていないと思います。

 

そういった方向けに、こどもぴあでは、悩みを皆さんで打ち明けて、気持ちを軽くしていこうといった相互支援の場を提供しています。

 

子供の立場からさまざまな話を聞くと、子供の時から親の精神疾患と接しているので、恐怖や苦しみがあったり、自分が精神疾患になってしまったという方も多いですね。

 

そういう現状は世の中にいっぱいあると思いますが、家庭内のことは家族でけに留めようという意識が働いたりして、なおさら外に出てきづらいんですよね。

 

大人になっても「息苦しい」「生きづらい」って言う人は多いです。

 

その意識を少しでも解放してあげる役目がこどもぴあにはあるのかなと思っています。

 

 

生のリアルな声を届ける活動

大学などの講演でお話ししていると、当事者がおかれているリアリティの部分についてはまだまだ知られていないと感じることが多くあります。

 

統合失調症の当事者である私としては、

 

「こういう体験をしたよ」

「統合失調症でも、これだけ活躍できるんだよ」

 

といった生の声を伝えていくことで、何か感じ取ってくれればいいなと思っていつも話しています。

 

中には、統合失調症が何かを分かっていない学生さんもいますが、皆さん真面目に聞いてくれるんです。

 

講演後に40〜50名分のリアクションペーパーを受け取ると、「逆に勇気づけられました」といった言葉が並んでいます。

 

裏面までびっしり書いてくれる学生さんがいたり、学生の熱い思いに講演の度に涙せずにはいられないですね。

 

050

 

 

早期治療の大切さ

日常生活を上手くマネージメントしたり、自分の体調を可能な限りコントロールしようという意識は、自分の中で最優先事項だと思っています。

 

言い方が難しいですけど、無理し過ぎないところは無理せず、体調の波をできるだけ穏やかにさせるような意識ですね。

 

ただ、統合失調症はなかなかコントロールが効かない疾患でもあります。でも、なぜだか分からないけど、僕自身としてはコントロールが効いている感覚もあります。

 

症状自体が軽いという面もあると思いますが、18、19の時に治療を始めて早期治療につながれたことも関係していると思っています。

 

そういったことからも、早期治療、早期介入は本当に重要だと当事者として強くお伝えしたいです。

 

また、自分が統合失調症当事者でもあるので、同じような境遇の方々に勇気を持ってもらいたいという想いは常にあります。

 

講演では障害年金を含め、色んな話をしますが、知識提供は本音の部分では二の次です。

 

「統合失調症の自分もこれだけ活躍しているんだよ」という姿から、同じような境遇の人などに勇気を持ってもらいたいのが一番です。

 

 

次は教授?TEDスピーカー?

大学教員になりたいんです。当事者としての大学教員。

 

自分からこそ伝えられることを若い人たちに伝えることで、お互いにさまざまな可能性を引き出せるようになりたいですね。

 

もう1つは、アメリカの有名な「TED Talks」という大規模なスピーチイベントに出てみたいんです。統合失調症当事者代表として。

 

幻聴などをはじめとする統合失調症の理解を広めるためにも、世界の中心で発信してみたいと思っています。

 

045

 

 

統合失調症の当事者だって活躍できる

統合失調症は、100人に1人の珍しくない病気です。

 

なので、もし自分の子供が統合失調症になってしまっても、決して慌てないこと。そして、繰り返しになりますが、早期治療。

 

「多様な価値観を認める」と、よく言われるじゃないですか。

 

社会には本当にいろんな人がいますよ。僕もいろんな人の中の一人。

 

いろんな価値観のところでお互いに認め合って支え合う。

 

なかなかできないことかもしれませんけど、今の時代、一番必要になってくると思います。

 

精神病院ももっとポピュラーになって欲しいんです。

 

内科などと比較すると、行きづらいという心理的なハードルがやっぱり高いと思うんですよね。

 

統合失調症をはじめメンタルヘルス全般に関して、若い頃から知り慣れていくと、この世の中って絶対良くなると思うんです。

 

多様な価値観を認め合うために、若い頃からのメンタルヘルスリテラシーの積み上げは、これからの先の日本にとって大切な先行投資になると思います。

 

そして、統合失調症当事者である私自身も、これからも関わっていきたいと思ってます。

 

<関村友一さんインタビュー完>

020

関連記事