暴走族から精神保健福祉士になるまで【関茂樹さん Part1】

2017.01.06公開 2017.06.18更新
 
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今回は、横浜市で精神保健福祉士として活動する関茂樹さんにお話を伺いました。関さんは、精神疾患への理解を深めることを目的とした「シルバーリボン運動」という啓発活動に取り組んでおられます。

 

ほかにも、精神障がいを抱える方たちが集まる「就労継続支援のB型事業所」の運営や、家庭で生活することができない子どもたちの生活支援などを行う「自立援助ホーム」を運営しています。

 

今回のインタビューでは、関さんがどんな少年時代だったのか、精神保健福祉士の道を志した理由、現在に至るまでを、4回シリーズでお届けします。

 

 

やんちゃだった少年時代

小さい頃は今と違ってずんぐりむっくりしていて、体格も良く、ガキ大将みたいな感じでした。とにかく外で遊ぶのが大好きで、クワガタ採ったりザリガニ採ったり、いつもアウトドアを楽しんでいるような子どもでしたね。

 

2歳上に兄がいて、よく一緒に遊んでいました。仲は良い方だったと思います。小学3年生からサッカーを始めて、そのあと中学校3年生まで続けました。運動が得意だったし、やり始めたら面白くて。

 

母親が教育熱心だったこともあり、小学校の頃はわりと成績も良かったように記憶しています。思い返せば、旅行先でも勉強させるような厳しい母でした。

 

しかし、兄が中学生となり、だんだん親の手を離れていったのをきっかけに、私もそれにあやかって、母親からあまり干渉されなくなりました。

 

私はそれを良いことに勉強はあまりせず、友達との遊びやサッカーばかりを一生懸命やっていました。

 

そのうちに、なぜかヤンキー漫画にはまっていって、ヤンキーの先輩に憧れるようにもなって。中学2年生から夜遊びもするようになったんです。警察のお世話になるようなことをして、イキがっていたように思います。

 

 

サッカーじゃなくて暴走族

中学3年生の受験シーズン、その頃の自分は受験勉強がしたくなかったので、サッカーがうまかったことで、入れそうな高校を進路の先生に紹介してもらい、そこに進学することとしました。

 

でも、サッカーより興味あることが生まれてきて…。それが「暴走族」でした。

 

当時、兄貴の友人(先輩たち)が暴走族に所属していたんです。先輩たちが着ていた特攻服がとても格好良くて、それに憧れるようになりました。高校に進学したらサッカーをやろうと思っていたのですが、暴走族に入ることに気持ちが傾いていきました。

 

暴走族に入ると決めた決定的な瞬間は、中学と高校との間の春休みのことでした。新潟の祖母宅でたまたまTVを見ていたところ、警察を密着するテレビ番組に地元の先輩たちが映っていて…。

 

パトカーの進路を食い止める「ケツ持ち」をしながら、地元の暴走族チームの特攻服が全国放送のTV画面に大きく映り、ああ、俺もあの特攻服を着たいなと。

 

今考えれば本当に「しょうもない」ことなんですが、当時の自分には衝撃的で、「やっぱり俺、暴走族をやろう」と決めたんです。

 

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高校は1学期で辞める

高校は、親の手前もあって最初の1学期は行きました。でも無理して続けようとは思えず、2学期からは「もういいかな」と行かなくなりました。

 

暴走族に入ったのは、高校入学と同時期からでした。集会という名のもと、バイクで爆音を響かせて、午前1時~3時くらいまでの深夜、横浜・湘南地域を走り回っていました。

 

暴走族って「なめられちゃいけない」とか「チームの看板に傷つけられちゃいけない」っていうのがあるんですよ。だから喧嘩もしょっちゅうしていました。

 

暴走族はそれぞれの地区にチームがあって、各中学の不良が各チームに所属していました。また、各チームの連合体があつまる「幹部会」というのがあり、そこで情報交換をしたり、今後の予定を決めたり。

 

週に一度の幹部会では、今はなくなってしまった遊園地の駐車場に、不良が150人~200人くらい集まっていましたね。

 

 

激しい世界で学んだ上下関係

自分が想像していた通り、暴走族はとても厳しい世界でした。暴力行為と隣り合わせで、上下関係にはとても厳しい。

 

先輩に対して少しでも失礼があれば、厳しい仕打ちを受けました。理不尽なこともしばしば見られる世界でしたが、厳しい上下関係を叩き込まれたことは、後に社会人になったときに役に立っていると感じました。

 

不適切かもしれませんが、あの頃は毎日必死に、なんて言うか「暴走族を」一生懸命頑張っていました。恥ずかしながら、将来のことなんて全く考えていませんでしたね。

 

 

気が付けば母親が頭を下げてくれていた

自分が実際に体験した暴走族の世界は、漫画で描かれる暴走族の世界とは全然違っていました。厳しく、凄惨な出来事も多く、苦い思いもたくさんしました。

 

ほとんどの仲間が鑑別所や少年院に行きましたが、幸い私は1回も行かないで済みました。運が良かったというのが一番だと思いますが、母親の存在も大きかったように思います。

 

警察のお世話になり、その後家庭裁判所に呼び出された際には、その都度、母親が「本当に、こんなことを二度としないように、家庭でしっかり指導します。本当に申し訳ございません。」と頭を下げてくれました。

 

どんなに迷惑をかけても、母親は自分を見捨てようとは思っていなかったようで、そういう意味でも恵まれた家庭環境だったように思います。

 

私の両親は真面目に生きてきた人で、親族も優秀人が多いとのことでした。だから、自分が暴走族になったことで、両親は親族から白い目で見られたり、色々と言われたりしたのだと思います。

 

また、自宅には暴走族仲間がたむろしたり、度々パトカーが現れたりして…。真面目だった両親からすれば、相当辛かったでしょうし、とても胸を痛めただろうと思います。

 

 

迎えた「引退」

私が所属していた暴走族チームは、ある程度の年齢となり、影響力がある先輩から認めてもらえたら、暴走族を引退することができるといった仕組みがありました。

 

19歳になる直前、同期の仲間が鑑別所や少年院から出てきたので、そのタイミングで苦楽を共にした仲間と共に、引退式を行うことができました。

 

暴走族の引退後、その後何をするかは全然考えてなくて、将来に対する不安などは、少しも頭の中にありませんでした。

 

しかし、暴走族を引退してから間もなく、微塵も想像していなかった出来事が、突如わが身に降りかかることとなりました。

 

続きは、第2章へ

PHOTO by 齋藤郁絵

 

 

関茂樹さん全インタビュー

【Part1】暴走族から精神保健福祉士になるまで

【Part2】自分の指を切り落としたたった一つの理由とは?

【Part3】悩んでいる人の助けになれる仕事を

【Part4】辛い経験はかけがえのない財産にもなる

 

 

関さんが取り組む活動

シルバーリボン活動

シルバーリボン公式啓発グッズ

自立援助ホームNEXT

 

 

インタビューを受けてくださる方、募集中です

臨床心理士、精神保健福祉士、看護師、保健師、産業カウンセラー、支援機関の職員など、すでに多くの方にインタビューを行っています。ご自身が、有名かどうか、権威かどうかは関係ありません。

 

また、精神疾患などの当事者の方、メンタルヘルスや人間関係でお悩みの方などのインタビューも行っております。

 

これまでの経験・取り組みや、ご自身の想いを読者に届けていただき、Remeのミッションである「こころの専門家へのアクセスの向上」「こころの健康に関するリテラシーの向上」の実現のために、お力をお貸しいただけますと幸いです。

 

ご興味をお持ちいただけましたら、下記フォームよりお問い合わせください。24時間以内にご連絡いたします。

 

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