世界一明るい視覚障害者として引きこもりだった自分に伝えたいこと

2017.01.14公開 2020.05.08更新

障害者就労支援を行う、NPO法人FDAの前理事長で「世界一明るい視覚障害者」というキャッチコピーで多方面で活躍されている成澤俊輔さんへのインタビューです。

 

ハーバードビジネスレビュー「U40これからの日本を変える20人」に選出されたり、NHKのハートネットTVで密着取材を受けたりと、各方面から注目されています。

 

インタビューでは、成澤さんの少年時代からさかのぼり、様々な現実に葛藤しながらも、現在のご活躍に至るまでについてお話しいただきました。

 

視覚障害、引きこもり、うつ

はじめまして。成澤俊輔です。僕には当事者として3つの立場があります。

 

1つは、1万人に1人といわれている網膜色素変性症という、視覚障害の当事者としての立場です。

 

3歳の時に家族で花火をしていて、燃えカスをバケツに入れようとした時に、バケツの場所がわからなくなり、「暗いところが見えてない」と気づき、病気が判明しました。

 

2つ目は、大学時代の2年間、引きこもりをしていたこと。

 

当時は、障害のことを誰からも理解されず、部活も漫画もゲームも出来ないから人とも仲良くできないし、勉強ばかりしていました。

 

「偏差値が自分の価値」だと思っていたくらいだったんです。

 

それなのに、大学2年生のときに必修科目を落としてしまって、自分の支えの勉強ですらできなくなったと思ってしまったんです。

 

そこから、自分をどうやって保っていけばいいのかわからなくなり、約2年間引きこもりの状態にありました。

 

3つ目は、過労でうつ状態になったことです。

 

20代前半にコンサルティング会社で仕事していたんですけど、ある日会社に行けなくなってしまったんです。

 

オーバーワークによる過労もありましたが、目が見えない中、ノリと経験と勘とキャラで、周りと同じように仕事をやってきたひずみが出てしまったようでした。

 

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「俺はきっと普通じゃないんだな」

視覚障害に関して、小学校2年生くらいの頃から眼科に通い始めていました。

 

視覚障害のことを親から何か告知されたことはなかったんです。眼科には学期ごとに通っていましたが、皆も眼科に通っていると思っていました。

 

今思えば、眼科に全然子供がいなかったのですが、クラスの人に「眼科行った?」って普通聞かないじゃないですか。

 

だから、学期ごとに眼科に通っているのが僕だけだとは知らなかったんです。

 

でも、サングラスをかけなきゃいけなくなり、自分は周りの人と違うと感じ始めるようになりました。

 

小学校4年生の時、林間学校で肝試しに参加できなかったことがありました。

 

肝試しに参加できなかったのは骨折している男の子と僕だけで、発狂するくらい泣きました。

 

「俺、取り残されてるなぁ」

「差別されているんじゃないかな」

 

って、すごく思いましたね。

 

中学の時、僕に視覚障害の病気のことを伝えるかどうかで両親の意見が分かれたんです。

 

ガンでお姉ちゃんが死んだこともあって、鹿児島出身の肝っ玉かあちゃんは、「目の病気について早く教えたろ」という考えでした。

 

でも、医者である父は、お姉ちゃんがガンで亡くなって、僕まで難病…という状況で、「医者の私の子供がそんなはずない」となって、両親が病気をどう伝えるかでせめぎ合っていました。

 

そんな中、母が僕の眼科の通院結果を記録していた「しゅんすけの目のノート」というものをつけてたんです。

 

そのノートの存在を知り、

 

「俺はきっと普通じゃないんだな」

 

という思いはだんだんと強くなっていました。

 

でも、お母さんには本当によくやってくれていたと思います。

 

中学と高校の時は、9割ぐらいは送り迎えしてもらっていたんです。

 

「お母さんができることはそれくらいしかないから」って。

 

それは本当に感謝してもしきれないと思います。

 

旦那が大学教授で、お姉ちゃんガンで亡くなって、僕は難病でって…。普通は生きていけないですよ。気が狂うと思うんですよ。

 

それなのに母はいつも明るくて元気で。僕の良いところは全部、母からきていると思っています。

 

視覚障害者はどう生きる?

視覚障害で目が見えないことがすでにマイナスで、周りから取り残されていることを感じる毎日。

 

何か武器を見つけようと色々と考えてみたんですね。でも部活もできないし、何か取り柄があるわけでもない。じゃあ、とりあえず勉強しようと。

 

そこから努力して、頭が良い、上手く話ができるとなって、ようやくプラスマイナスゼロという感じでした。

 

「優等生として生きていこう」と思って塾に超通ってました。笑

 

勉強している時は向かっていく目標があり、「受験戦争万歳」みたいな感じで死ぬほど勉強しましたね。

 

大学入学後は、目の病気を持っている人がどうやって生きてきたのか知りたかったのと、自分のモヤモヤ感が整理されると思って、社会福祉の勉強をしていました。

 

でも、そもそも僕みたいに障害があると、好きな大学を受けられませんでした。

 

高校三年生の夏に、受ける可能性がある全大学に診断書などの書類を送って、大学側がOKと言うところしか基本受けられなかったんです。

 

「うちの大学ではそんなに支援が出来ません」など、大学によっていろんな反応がありました。10年前の話なので、だいぶ変わったと思いますが。

 

受験できる学校が限られる中、絶対行かないだろうと思っていた埼玉県立大学という所に行くことになったんです。笑

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近藤雄太郎

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  • 本記事は2017年1月14日に公開されました。現在の状況とは異なる可能性があることをご了承ください。