ゲイを病気扱いされ、死を考えた過去。ただ生き延びるために必死だった
今回のインタビューはゲイ当事者のカウンセラーとして、カウンセリングルームP・M・Rを運営されている村上裕さんです。
ゲイであること、母子家庭での苦しみ、いじめ、、自傷行為、そして現在のカウンセラーという仕事に至るまでのご経験をお話しいただきました。
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LGBTと母子家庭
村上裕と申します。1982年生まれのゲイの当事者です。2007年からカウンセリングを始めまして、今年で10年目になります。
現在、従来の心理支援サービスの提供とともに、後進育成のためのカウンセラー育成、LGBT当事者にとどまらず、LGBTの周辺家族の方の心理支援、カミングアウトを受けたご家族や友人の方々のコミュニティづくりなども行っております。
あとは、この10年の中で、さまざまな当事者のクライアントの方から、お聞きしてきた中で分かってきた「マイノリティーの心理」というところを背景に、マイノリティーの心理学講座であるとか、マイノリティーの支援者のためのカウンセリング講座といった心理学講座の開催も行っています。
私自身、ゲイというマイノリティーでもあるんですが、母子家庭というマイノリティーでもあります。
暴力傾向のある父だったので、母に引き取られた後に、母に育てられたんです。
出生後間もなく母子家庭となり、母が働きに出ている間、基本的には託児施設にずっと預けられていたので、母と過ごすのは朝と夜ぐらいでした。
私の出身地は福島県なのですが、非常に閉鎖的な環境ということもあって、母子家庭というものそのものが差別の対象でした。
実際、私が母子家庭の子どもということで、その託児施設で保母さんからの暴力の対象になったこともありました。
そのため、警戒心が高く、あまり人になつかない子どもだったと思います。
小学校に入った後、田舎の狭い世界なので、周りの同級生は私が保母さんたちに殴られているのを見ていたんですね。それで学校ではいじめが始まりました。
学童保育のような施設に行っていましたが、やっぱりうまくいかずに、小学4年生くらいでいわゆる「鍵っ子」になりました。
母は、夜中にならないと帰ってこないので、学校が終わった後は、家に帰って一人過ごす生活ですね。
中学校も高校も地元の学校でしたので、周りの生徒は小学校からあまり変わらないんですよね。なので高校を卒業するまで、いじめは続きました。
中学では部活で卓球をしていました。楽しかったですね。チームプレーではなくて、一人でやるので。
当時は、今の自分とは全然違う人間だったので、人とかかわることが難しかったですし、どう接していいかも分からず、チームプレーというものが、よく分からなかったんですね。
学校が終わって家に帰って食事をしたら、練習をしにスポーツセンターに行って、夜の9時10時に帰ってきて…という感じで、すごく夢中になれたのは大きかったですね。
実は、小学校くらいのころから、少し自殺傾向がありました。
学校でいじめられて家に帰ったときに、猫と過ごすわけですけれど、言葉が通じる存在ではないので、家に一人でいると子どもながらにいろんなことを考えていたんです。
それで、包丁を自分に突きつける…みたいなことを小学校の頃からしていました。
そういう死に向かう衝動みたいなものをスポーツに転嫁できたというのは、きっとすごく大きかったですね。
いじめや暴力というものは、個人の力ではどうしようもない面があります。自分の力ではどうにもならない圧力に耐えたり、しのぐためにスポーツが非常に役立っていました。
ゲイの自覚と初恋相手の死
私自身がゲイであることは、幼稚園ぐらいからあったと思います。
いじめを受ける中で、「オカマ」とか「ホモ」という言葉から同性愛の知識を得て、自分が何者かということを知っていったんです。
そんな僕に、高校のときに初恋の男の子がいたのですが、彼が自殺してしまったんです。
彼と私の境遇はよく似ていました。彼の場合、母子家庭ではないですが、とても複雑な家庭環境の中で育っていたようでした。
その彼が死んでしまったとき、福島という土地にずっといたら、そう遠くないうちに僕もきっと死んでしまうと思ったんです。
当時、生きる理由がない中で、彼の存在は生きる理由になっていました。その彼が亡くなってしまったときに生きる理由がなくなってしまったので、もうこの土地で生きていく理由がなくなりました。
そこに居続ければ、いつか自分も人生を諦めてしまうだろうなと思っていましたし、自分がゲイという自覚もあったので、その土地で未来がない感じはすごくあったんですよ。
それで、とにかく脱出しようと、大学から東京に出てきたんです。
高校生の時、インターネットを通じて、東京にはゲイなどの同性愛の方々が集まる「二丁目」という街があるらしいということを知ったんです。
死んでしまった彼の代わりではないですけれど、そこに行けば何か新しい生きる理由みたいなものが見つかるんじゃないかなというような感じがしました。
人生を諦めるのは、そこを見てからでもいいのかなと思って、全然前向きではなかったんですが、最後の手綱のような感じで東京に出てきて、新宿二丁目という街と出会いました。
新宿二丁目では、本当にいろんなことが衝撃でした。
新宿駅を降りて私の目の前に、男性二人が歩いていたんですね。何となく、「この人たちもゲイなのかな」とついていくと、新宿二丁目に入ったときに、今まで友達同士の距離だった二人が、すっと距離が近くなって手をつないだんですね。
そのときに、すごくショックというか、衝撃を受けました。この世界の中に、男同士で手をつないでも生きていける場所があるんだと。
私が地元で経験していたのは、「ゲイ」「オカマ」「ホモ」という言葉で、攻撃を受けたことしかなかったのですが、攻撃されないどころか、男同士で手をつないでもいい場所がこの世界に存在しているんだということが、良い意味ですごくショックでしたね。
ここでだったら、自分がゲイであるということを何らかの形で表しながら生きていくことができるのかなと思えて、希望のような何かが生まれた気がしたのを覚えています。
引きこもり、リストカット
もともと虐待環境に育ち、思春期にゲイということを知り、恋はしたものの、初恋の人が死んでしまう…。
福島を出たことによって、ようやくという感じですけど、自分の人生をやっと振り返ることができるようになったんです。
その一方で、自分が育った環境があまりにも人と違い過ぎて、うつや対人恐怖症、社交性不安障害、パニック障害…そういったものを発症しました。
それで大学に行けなくなってしまい、1年か2年ぐらい、引きこもりになりました。
そのとき、何で自分が苦しいのかも分からないし、なぜ人が怖いのかも分からない…。でも、まともなメンタリティーではないことはよく分かっていて。
グリーフケアの中でもよくいわれますが、安全な環境になって初めて人間は悲しむことができるんですね。
福島を離れたことで、やっと初恋の彼が死んでしまったことの悲しみ、いじめを受けたことの悲しみ、虐待を受けたことの悲しみが一気に感じられるようになったんです。
この時、自傷――リストカットが始まるんですけれど、
そのときに、福島を出たのはいいんだけれど、このままだと自分が自分を殺してしまうなということが分かって。
でも、どんどん外にも出られなくなっていくし、人とかかわっていても怖くなってしまう…。
二丁目に行くと、確かに自分と同じゲイの人はいるけれど、彼らは自分のような環境で育ったわけではないので、同じゲイだけど、でも違うという、そういう違和感がどんどん強くなっていました。
このままだと死んでしまうなという予感すらある状況でした。
大学に相談室があったので、そこでカウンセラーの方に、自分に起こっている出来事を話したときに、その大学が提携している、近くの国立病院を紹介されました。
そこの精神科を受診したときに、薬を処方されて、これを飲んでくださいと。
抗不安薬なので、確かに一時的にはすごく感情が穏やかになるんですけれど、効果が切れると、また一気に恐怖がやってくる日々を過ごす中で、これを一生続けていてもなぁと。
「薬は出されるけれど、先生はいっこうに治してくれない」みたいな感覚がありました。
あるとき、先生にそのことを聞いてみたら、「病院でできるのは薬を出すことだけで、心の課題は自分で何とかしてください」的な説明を受けたときは途方に暮れましたね。
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- 本記事は2017年3月17日に公開されました。現在の状況とは異なる可能性があることをご了承ください。