完璧主義で自責思考の私が「ほどほどで良い」と思えるようになれたきっかけ

2019.03.31公開 2020.05.15更新

自責思考や焦り、周囲との比較や完璧主義…。そして自己肯定感の低さ。

 

こういった思考の癖が、ときに「自分には生きている価値がない」とさえ思わせてくることは少なくありません。

 

今回は、ご自身の経験を通じて「自己肯定感を高めるシンプルな方法」などブログで発信されている、竹内瑠美さんへのインタビューをお届けします。

 

竹内さんも、自責思考や完璧主義、そして自己肯定感の低さに苛まれてきたお一人ですが、そういった思考の癖とどのように向き合うことで、人生を前に進めてこられたのでしょうか。

 

10歳、父の突然の死

はじめまして、竹内瑠美と言います。

 

現在は、夫婦でCapybaraDesignというデザインユニットを組んで、主にベンチャー企業のweb領域のお手伝いをしています。

 

「どっちが所長」みたいな上下関係もなく、とてもフラットな感じで働いています。

 

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子どもの頃は、「言いたいことが言えない…」なんて気にしない勝ち気な子でした。

 

ただ、10歳のときに父の死があって…。自殺だったんです。

 

あまりに突然で、すごくショックで。当時のことをあまり覚えていないくらい。

 

お葬式のときの数少ない記憶として、「泣いちゃいけない」とすごく思っていたことは今も覚えています。

 

お葬式中、お母さんが悲しみに暮れすぎていて、

 

「ここで私が泣いてしまったら、お母さんをより悲しませてしまう」

 

と、泣くことをすごく我慢していたと同時に、

 

「これから私がお母さんを支えるんだ」

 

みたいな謎の正義感も、自分の中に強くインプットされるようになってしまったと思います。

 

その後、家庭もぐちゃぐちゃな状態で、環境を変えようと半ば逃げるように私立の中学校に行きました。

 

でも、お母さん1人ではやはり経済力が正直無くて…。

 

中学に入ってすぐに、「高校は学費が安い都立に行かなきゃダメだ」と決意しました。

 

通っていた中学は偏差値がとても低い学校で、ひたすら暗記型の勉強をしていました。

 

猛勉強していたので、中学校ではずっとトップの成績を取りつつ、受験への不安がゆえに、

 

「勉強しなきゃしなきゃ」

「勉強していない自分はダメだ」

 

と強迫性っぽい感じになっていたと思います。完璧主義でもありましたし。

 

心の拠り所は「勉強している私」

念願の都立高校には無事入れました。

 

高嶺の花だと思っていた高校に入れて「やったー! 」ではありました。

 

そして、さらに最初のテストで学年1位を取っちゃったんです。

 

憧れで入った学校で、学年1位を取れた驚きと嬉しさがあって、

 

「このまま、学年1位をキープして推薦を取ろう」

 

と自分の中で決めちゃったんですね。お金をかけずに進学するために。

 

そこからやっぱり、ずっと勉強し続ける日々になってしまい、寝ているとき以外ずっと勉強しているような生活でした。

 

お風呂も入っていても、道端を歩いていても、勉強。今思うとマジで狂気です。笑

 

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そのときの心の拠り所は「勉強している私」

 

「勉強している私」がアイデンティティになりすぎてしまっていました。

 

「勉強をしていない私はダメだ」

「勉強をしていないと自分の価値が無い」

 

といった部分が、勉強をすればするほど強化されていくというか。

 

テストの点数が良ければ褒めてもらえるし、勉強を否定する人は誰もいなかったので、勉強することを盲目に信じていた感じでした。

 

友達関係でいうと、高1のときに仲良かった子には、

 

「瑠美は要らないことにもすごく気を遣うよね」

「私、友達なのにすごく気を遣われてるよね」

 

と言われるくらい、嫌われたくない思いや相手の顔を気にする面がありました。

 

そして、17歳(高2)のとき、突然めまいが止まらなくなってしまったんです。

 

船酔いみたいなめまいが止まらなくなり、生きている感じがしないというか。

 

ずっと世界が揺れているので、焦点も定まらないし、「この世界はなんなんだろう」みたいな感覚がありました。

 

当然、勉強も集中できず、それどころかご飯を食べるといった当たり前のこともストップさせられて、

 

「これからどう生きていけばいいんだろう」

「やりたいことができない」

「次のテストで1位を取るつもりだったのに…」

 

と、恐怖心がどんどん強くなっていました。

 

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目標だった推薦も、学校をかなり休んでしまったので取れなくなりました。

 

にも関わらず、完璧主義で変なプライドもあり、「勉強しなきゃ!  」とどんどん泥沼にはまっていきました。

 

そして、最終的に英語が全く読めなくなってしまったんです。

 

アルファベットが全然、頭に入って来ないんです。「何の文字だろう」「象形文字? 」みたいな。

 

「ああもうこれはダメだ」と思いましたね。「これは限界がきたんだな」と。

 

それで結局、受験もせずに高校を卒業することになりました。

 

その後、半年は引きこもりましたね。

 

何をしていいか分からなくなったんです。

 

多分、人生で一番の闇の時期でした。

 

「生きている価値がない」

当時は、自分に起きていることを理解したかったので、うつの本とかもたくさん読みました。

 

お母さんと一緒に、色んな病院とかも行っていた時期でもありました。

 

と同時に、お母さんとの関係はすごく悩んだ時期でしたね。

 

勝手な想像なんですけど、「お母さんにすごく責められているんだろうな」と。

 

「大学にも行けず、引きこもって何をしているんだろう」

 

と思われているんじゃないかなと、自分をずっと責めていました。

 

普通の会話なのに、怒っているように聞こえたり、過敏になっていましたね。

 

実際に言われて一番ショックだったのは、「普通に戻ってほしい」という一言でした。

 

「普通じゃなきゃダメなんだ…」

「普通ってなんだろう…」

「今は普通じゃないから戻らなきゃ…」

「でも、どうやったら戻れるんだろう…」

 

という焦りとショックで、頭がいっぱいになってしましたね。

 

「生きている価値がない」とも思うようになり、何をするにも恐怖が伴っていました。

 

もちろん、私にも「前みたいに戻りたい」という思いはありました。

 

「今の自分でいたらダメだから、普通に暮らしている人にならなくては」と。

 

それで引きこもってから半年後くらいに「社会に出なきゃ」とバイトを始めたんです。

 

初めてのバイトはめっちゃ怖かったですね。本当に毎日震えながら行っていました。

 

社会に出たのが初めてだったのに、そこで自分に難しい課題を課してしまうんですよね。

 

簡単なところから始めればいいのに、接客が必要なホテルのバイトで、やっぱりすごく難しくて半年も続かなかったと思います。

 

今振り返ると、何で人が怖いときに、わざわざ挑んでいるんだろうと思うんですけど。笑

 

「挽回したい」という気持ちでいっぱいすぎて無理に無理を重ねて、バイトを何回も始めては辞める…を繰り返していました。

 

接客でコーヒーを出しながら、なぜか「怒られないかな」と思っていたり。もう何でもかんでも怖かったんです。

 

そのときの恐怖を例えると、生存本能が侵されている怖さ。目の前に虎がいるみたいな。

 

「お化けが怖い」ではなく、「今日生きていけるのかな」という怖さなんです。

 

そういう生存本能が脅かされるような怖さがずっと続いていたんですよね。

 

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私には「〜病」という明確な診断名がなくて、時間とともに症状も変わったりしました。

 

いろんな病院に行ったが故に、症状に関しては、伝える表現をちょっと変えるだけで診断名も変わると分かってしまったんです。

 

「人の視線が気になります」と言うと、視線恐怖症と言われ、「落ち込みが激しいです」と言うと、うつ病と言われる。

 

「落ち込んだ後にちょっと元気にはなるんですけどね」と言うと、「じゃあ躁うつですね」と。笑

 

もう何が正しいんだろうってなりますよね。

 

もらう薬も診断によって変わってしまうので、そのお薬も信用できなくなってしまって。

 

急にお金を渡してきたり、サプリを売りつけてくるお医者さんがいたりして…。

 

「こんなところに来る人じゃないから」と突き返されることもあったので、医者不信になるような人と遭遇することが多かったんですよね。

 

その時期、最終的に行った病院はなぜか脳神経外科で。そこの先生と相性がすごく合って、ずっと漢方を出してもらっていました。

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近藤雄太郎

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  • 本記事は2019年3月31日に公開されました。現在の状況とは異なる可能性があることをご了承ください。