
終電に間に合うはずもない仕事と心身の異変【黒川常治さん Part2】
目次
新人時代からバリバリ働く
専門学校を卒業して、入社したデザイン会社では、色々任せてもらいました。
入社して3か月ぐらいの時、みんなのスケジュールがいっぱいで、新しいクライアントとの打ち合わせに誰が行くかということになったことがありました。
まさかとは思っていたのですが、「打ち合わせに、黒川君行ってくれないか」と言われて、新人の僕がその打ち合わせに行ったんです。
会社にとっても、僕にとっても、初めてのクライアントですよ。そんな新人を打ち合わせに行かせるのもどうかとは思うんですけど、僕自身、割と肝がすわっちゃってる方で。
でも僕、見た目が老けてたんですよ。それで打ち合わせに行った時も、クライアントから「黒川さん、この業界、お長いんでしょう」なんて言われて(笑)。
打ち合わせ中、クライアントさんとの会話をなんとか続けて、「じゃあこんな感じですかね」という感じで、うまく終えることができました。
おかげで、そのクライアントの仕事は、僕が中心でやらさせてもらうことになったんです。色々と面白いこともやらせてもらえましたね。
転職後、アートディレクターに抜擢
仕事には満足していましたが、少ない給料にはちょっと不満でしたね。少ないのは良いんですけど、やったことに対しての報酬に納得できなくて。
それで、1年目にして転職をしました。転職先の会社の社長さんは、どんどん引っ張ってくれてというか、僕のことをどんどん利用してくれてというか、良い意味で使ってくれました。
僕よりも年上の人がいたんだけども、「君にアートディレクターとしてやってもらいたいけど、それを公言しちゃうと年上の人がやりにくくなるから、君は名乗らないでそれをやってくれ」と。
給料も一番良い時は、1年で3回ぐらい昇給してくださって。3年いましたけど、本当にいろんなことを教わりましたね。
デザインのことだけではなく、「デザイナーとしてどうあるべきか」「チームとしてどうやるか」とか、お酒の飲み方もそうですけど、いろんなことを教わりましたね。
僕が一番年下だけど、アートディレクターに抜擢してくれたのが、すごくうれしくて。
デザインだけじゃなくて、イベントのブースのディレクションや、その時配るパンフレットを制作したりとか、活躍する機会は本当にいろいろありましたね。
仕事全体を見渡すことができたので、いろんなことを学ぶことができました。そういうことを若いうちから経験できるってなかなかないですよね。
アートディレクターとして抜擢してくれた社長さんには未だに感謝しています。
順調なデザイナーキャリア
デザイナーとしての成長を求めて、次のキャリアを考えるようになり、DHCという会社に転職をしました。
DHCって「大学翻訳センター」の略で、もともとは翻訳の会社なんです。翻訳以外にも、オリーブオイルや基礎化粧品を扱うようになってきて、これから売り出す健康食品のパッケージなどのデザインに携わりました。
DHCでも、いろいろな経験を積んで、だんだんと大きい仕事もさせてもらうようになりました。ただその頃、仕事が17時あがりだったんでですが、むしろ僕は「もっと仕事がしたい」っていう気持ちが強くて。
今から思うと、給料が良くて、17時であがれて…って、最高な条件ではあったんですけど、当時の僕にしてはハングリー精神がいっぱいで、そういう意味では仕事が少なくて。
それで27歳のときに、別のデザイン会社に転職することにしたんです。
いわくつきのプロジェクト
転職先のデザイン会社では、広告だけではなく、編集デザインもやっていました。僕が主に担当していたクライアントさんが、雑誌広告をいっぺんに12誌出すところでした。
それがいわくつきのプロジェクトで。後から聞かされたんですけど、いろんなデザイン会社から断られてきた、回って来た仕事だったんです。
12誌分の広告があるとしても、商品のイメージを統一させるために1つのデザインを作って、それを12誌に展開するというやり方がオーソドックスだと思います。
ただ、そのクライアントさんは、12誌全部違うアプローチ、デザインという方針でした。しかも入稿してからのプランやデザイン変更が日常茶飯事という状態でした。
終電に間に合うはずもない仕事
広告の根幹となるコンセプトが途中で変わったりもして、本当に大変な思いをしました。
念校といって、「これから先は変更できません」というタイミングにたどり着くまでに、どんでん返しがいっぱいあるわけですね。
そのどんでん返しを毎月12誌、全部やるんですよね。終電過ぎてから、「今日はもう連絡ありません」というようなやり取りを代理店の人とする感じでした。
「今日はもう連絡ありません。帰って良いです」って言われても、「もう終電終わってるよ」という日々が続いていましたね。
それでも毎回ちゃんと、12誌分を仕上げて、「やっと1ヶ月終わったね」って一息ついた頃に、また次月の12誌が始まるんです。
眠り方を忘れていった
会社には「人を増やして欲しい」とお願いはしていました。
僕とコピーライターの2人だけでやっていたので、「これじゃ体がもたない」っていうことは言ってたんですけど、増やしてくれることはなかったですね。
カプセルホテル代やタクシー代は経費で落ちていましたけど、でも過酷な労働でしたね。24時間体制とはまさにそのことで。
当時、ポケットベル持たされてましたので、帰れても、ポケットベルで呼び出されたりとかっていうことがあって。だんだん眠り方を忘れていったというか。
カプセルホテルで寝たり、あとは会社の広いスペースで寝てみたりとかっていうのが多かったです。
そのコピーライターと2人で言っていたのは、「とにかくやり切ろう」ということでした。たまに社長が飲みに連れて行ってくれたりするフォローはあるんですけど、ただ個人的なフォローはなかなかなくて。
ましてや、他の仕事まで「こっちも頼むよ」みたいなことがあったりとかして、自分の好きな業界だけど、それをやり過ぎたところではありましたね。
相方がパニック障害に
その頃、MacintoshやWindowsが始まった頃で、デザインもコンピュータでやるようになった頃でした。
コンセプトさえ固まったら、すぐコンピュータで見本ができるような世界が始まった頃なんですよ。だから、代理店の人も「すぐできるでしょ」みたいな感覚で無茶な要求をしてくるようになっていました。
1週間単位で仕事が進んでたものが、だんだん1日ごとに区切られるようなペースになってきて、デザイナーの生活や仕事をきつくさせていたのかもしれません。
僕もヘロヘロになりながらやって、相方のコピーライターが先にパニック障害になりましたね。タクシーでしか移動ができなくなりました。
ある日、打合せで宇都宮に行かなきゃいけない時に、新幹線を予約して2人できっぷを取って、駅弁まで買って、一緒に席に座っていました。
しかし、「さあ、出発だ」ってベルが鳴った時に「やっぱ無理」と言って、相方のコピーライターの女性がばーって新幹線から降りてしまって…。
僕が1人で打ち合わせに行く羽目になるようなこともありましたね。
原因不明の発疹や頭痛が始まる
そういう風にして、彼女もメンタルヘルスがやられて、僕も原因不明の発疹が出たり、頭痛がぬぐえなかったりっていうのがあって、かかりつけ医に診てもらいました。
病院に行った時に、まず頭痛はストレスからくるものということが分かったのですが、発疹に関しては原因が不明で。
ただ、「自律神経失調症かもしれない」という内科の判断があって、それから僕なりに自律神経失調症を調べました。
当時、自律神経失調症の本が出たり、本の中で「この項目に当てはまる数が多いと気をつけた方がいい」というチェックシートをやってみて、自分がかなり当てはまっていたんです。
その中に、「それが深刻になると、うつ病」という言葉にあって、「自分もメンタルクリニック受けなきゃ」と思い、通いやすい所を探しました。
「通勤途中にある所で行きやすい所にしよう」ということで新宿に決めて、新宿西口のメンタルクリニックに行って、そこで「うつ病です」って言われたんです。
順調だったデザイナーとしてのキャリアも、大きな曲がり角に当たり、文字通り途方に暮れていたのですが、その後の会社の対応がさらに僕に追い打ちを掛けてきました。
黒川常治さんのインタビュー