暴走族から精神保健福祉士に。「何で自分だけ」と嘆いていた頃を乗り越えて

2017.01.06公開 2020.05.03更新
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怠けだと思われて勘当されるまでに

家族との関係もどんどん悪くなっていきました。

 

それは体調不良をはじめ、様々な要因がありましたが、自分が仕事をせず(できず)に家でやり過ごすことが多くなったことが一番の原因だったと思います。

 

暴走族をやっていた時は、家に全然寄り付かなかったのですが。

 

家にいる時間が長くなってきて、仕事もせずに怠けているように見える自分に、家族からの当たりも厳しくなりました。

 

「寝れない」「具合が悪い」と言っても、「自分に甘いだけだ」「詐病じゃないか」などと厳しい言葉が返ってくるばかりでした。

 

精神的な病を抱える当事者から、「家族に理解されないのがつらい」との訴えをよく耳にしますが、当時自分も身をもってそのことを痛感していました。

 

なんでこんな状態に陥っているのか、なんで体調は一向に良くならないのか。自分の状態を自分でも理解できず、受容できず…。

 

具合が悪くて外に出られない、寝れない。病院で診察を受けても異常は見られない、良くならない…。

 

ただただ具合が悪くて、様々な異常を覚えるだけ。家族との関係性はどんどんこじれていき、ついには勘当される手前にまで悪化しました。

 

この状況下で家族に勘当され、家を追い出されたら絶望的だと危機を感じて、「どうしたら家族に自分の状況を理解してもらえるのだろうか」と考えました。

 

うつ病は自責の念、自己嫌悪、自信喪失、自暴自棄にとりつかれているような傾向が症状としてありますが、私もそうでした。

 

このような状況に陥っている不甲斐ない自分が本当に嫌で嫌で、常に不安や焦燥感があり、落ち着いていられませんでした。

 

詐病なんかではなく、本当に具合が悪くて長年厳しい状況にあること、自分なりに状況を打開しようと努力していることを家族に分かってもらうために、どうしたらよいか考えていました。

 

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指を切り落とした理由

そして、情けなく不甲斐ない自分への戒めと、今後の奮起につながるように。そのような思いや理由から、自らの指を切り落とすことを決めました。

 

もともと暴走族だったことが、「指を切り落とす」という発想につながったのかもしれません。

 

一日中、家にいるのも、仕事ができなくなっているのも、

 

「好きでやっているわけじゃない。甘えなんかではない」

 

ということを、とにかく家族に分かってもらいたかった。

 

21歳だった自分の指は、電動ノコギリでいとも簡単に落ちました。

 

そのような行為は、普通の人からすると到底理解できず、通常の精神状態でなかったとか、混乱状態の最中、衝動的に行ったとか思われるかと思います。

 

しかし、自分は冷静でした。家族からの理解を得るには、この状況を打開するためにはとよく考えた上での行動でした。

 

指を切り落とした後、自ら救急車を呼びました。

 

その際、家族にも近所にも迷惑をかけたくなかったので、近くまで来たらサイレンを消してくださいとのお願いもしました。

 

今でも覚えているんですが、そのときに救急隊員の一人が自分と歳が近そうな女の人だったんです。その人は一生懸命自らの任をこなしていました。

 

その姿を見て、

 

「俺、何やってんだろう…。同じくらいの年齢の人が、こうして懸命に仕事をしている。俺は将来の見通しすら立たない。…」

 

と切なくなったことを覚えています。

 

その後、変わり果てた自分の手(指)をどのタイミングで家族に見せるかというのは難しいものがあって。

 

しばらくはポケットの中に手を隠して何気なく生活していたのですが、3日くらいして母親が「どうしたの?」って聞いてきて。

 

「実は」と言って包帯まみれの手を見せると、母親は卒倒してしまいました。

 

家族の理解と不思議な安堵感

なぜ指がなくなったのか、自ら切り落としたのか、その理由を打ち明けたところ、母親は取り乱しながらも、

 

「そこまで苦しんでいたなんて、分かってあげられなくて本当にごめんね」

 

と言ってくれました。

 

父や兄も「あいつ苦しんでいたんだな、頑張っていたんだな」と理解を示してくれたようでした。

 

一生の傷を負うことになりましたが、ようやく自分の想いや状況を家族にしっかり伝えることができて、不思議な安堵感がありました。

 

家族の理解も得られたのと同時期に、自分自身の体調不良(病気)についても、だんだん分かってきて、それを受け入れられるようになりました。

 

それまでは、自分はもしかしたら精神的な病気なのかもと頭をよぎっても、自分に限ってそんな訳はない。そんな弱い人間ではないとそれを受け入れることはできませんでした。

 

しかし、家族からの理解を得られたこと、病気に関する情報を得られたこと、病気を受容することができたこと。

 

それによって焦燥感や不安感なども和らぎ、徐々に眠れるようになり、状況は良い方に向かっていきました。

 

自分自身で病気を受け入れられたことで、心が軽くなり、少しずつ夜も眠れるようになりました。そのおかげで少しずつ体調も良くなってきて。

 

ですが、同じ経験をされた方ならお分かりかと思うんですが、体調が良くなっても、社会から遠ざかっていた空白の時間(社会的ハンディキャップ)は簡単には取り戻せないんですよね。

 

そこの穴は思った以上に大きくて、すぐに社会参加、社会復帰というわけにもいきません。

 

もともと私は高校も卒業してなかったですし、仕事も力仕事しか経験がなくて。

 

そういう状況になってやっと「もっとこうしておけば良かったとか、高校に行っておけばよかった」なんて思ったりもしましたね。

 

たまたまご縁があった会社で働きながら、徐々に体調を整え、経済的にも立ち直っていき、だんだん自分の将来についても考えるようになって。

 

でも私、指がないじゃないですか。だからやっぱり、指を見られないように意識して、それが少しずつ窮屈に感じて。

 

時々、欠損した指を見つめて、なんで自分はこんなことをしなければならなかったのか。

 

病気を理解してもらうために、ここまでする必要はないんじゃないかと考えるようになりました。

 

そのうちに、自分と同じようなことで悩み苦しみ、厳しいに状況にある人の役に立ちたいと思うようになったんです。

 

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シルバーリボンとの出会い

自分の実体験を、同じような悩みを抱えてる人たちに役立てることはできないかと、インターネットで色々調べるようになりました。

 

そこでたまたま見つけたのが、シルバーリボン運動です。

 

シルバーリボン運動を日本で始められた杤久保(とちくぼ)さんという方が福島にいらっしゃることが分かって、2007年に杤久保さんのもとを訪ねました。

 

その後、自分もシルバーリボン運動に携わらせていただくこととなりました。

 

それに伴い、インターネットで情報収集をしていると、精神保健福祉士という資格の存在を知りました。

 

今から医者にはなれないけど、これなら頑張ったらなれるのかもと思って。

 

精神保健福祉士の資格をとるための道のりは幾つかあるのですが、独学では難しかったので、自分は福祉系の夜間大学に通って 資格取得を目指しました。

 

夜間大学は働きながら通っている人が多く、学生の年齢も生い立ちもさまざまなんですよ。

 

だから少し変わった歩みの自分も引け目に感じなくていい環境がよかったですし、幅広い年代の人たちと関わることで、自分自身の視野も広がっていきました。

 

シルバーリボン運動を展開するにあたって、啓発活動という部分で営業的なスキルが必要だと感じ、夜間大学在学中にソフトウェアメーカーで営業の仕事を始めることに。

 

そこはとても厳しい会社でしたが、営業のイロハやビジネスマナーなどをしっかりと教えていただきました。

 

東日本大震災後、福島を生活の拠点に

夜間大学を卒業する同時期、あの東日本大震災が起きたんです。

 

被害の大きかった福島にはお世話になっているシルバーリボンの杤久保さんがいました。

 

しかし連絡がとれず、安否の状況が分からなかったため、震災の翌日に安否確認を目的として、杤久保さんのご自宅がある福島に向かいました。

 

杤久保さんのご自宅は福島第一原発から20キロ以内の避難区域で、原発事故のニュースが報道される中、そこに向かおうとすることを周りからは大きく制止されました。

 

しかし、大恩ある杤久保さんが危機的な状況にあるかもしれないと考えたら、行動せずにはいられませんでした。

 

高速は使えなかったため、一般道で東京から15時間以上かけて、3月13日の早朝に福島県内に入りました。

 

周辺の道路は陥没し、ブロック塀は崩れておりましたが、杤久保さんのご自宅は案じていた倒壊などの被害は見られませんでした。

 

それが分かっただけでも大きな収穫でしたが、できるだけ早く安否を確認したいと考え、郵便ポストに訪問した旨を記した手紙を残し、周辺の避難所等を探し回りました。

 

車での移動の最中、目に入る光景があまりにも衝撃的でした。

 

線路の途中で電車が停まったままだったり、道路には幾つもの漁船が転がっていたり。

 

津波で壊滅的な被害を受けた地区や、家族が津波に流されたけど遺体が見つかっただけ幸せなんだと話す女性に会ったり。

 

そういう状況を真の当たりにして、色んな感情が沸き起こって「自分も福島に残って何かできないか」と思いました。

 

ちょうど夜間大学を卒業するタイミングで、新たに福祉現場での仕事をしようと思っていた時期でした。

 

杤久保さんの近くで生活しながら、何かお力になれないものかと考えました。

 

福島に生活拠点を移すことを決めてからは、まず仕事探し。

 

当時福島は混乱の最中で、ハローワークは人で溢れていました。

 

そんな中、需要があったのが「水商売」。復興のための作業員が多く来ていますからね。

 

私は暴走族時代に先輩のお店を手伝っていたこともあったので、そういった仕事には全く抵抗はなく、本業が決まるまでの間ですが、夜の飲食店のボーイをして働くことにしました。

 

それと並行して精神保健福祉に関係する仕事を探し、精神障がいの方たちの就労支援を行う福祉施設でお世話になることになりました。

 

シルバーリボン運動を本格化

生活の拠点を福島に移しつつ、並行して首都圏でのシルバーリボン運動の普及に携わりました。

 

当時は豊島区の社会福祉協議会さんの一室を拠点として活動していたので、月に何度も福島と東京を行ったり来たりしたものです。

 

活動内容としては月一度のイベント。でも福祉のイベントって、なかなか一般人が入りづらいものがありますよね。

 

私たちはちょっと変わったことをやりたくて、六本木のバーや渋谷のお洒落なレンタルスペース、新宿のLOFTで著名人をゲストに呼んでイベントを開催したりしました。

 

年月と共に色んな方たちが活動に協力してくれるようになりましたが、安定的にシルバーリボンの活動を持続させていくには、経費をまかなえるだけの収入が必要になります。

 

その収入源をどうするかを考えて、自分たちの活動内容に近しい事業を展開することにしました。

 

ちなみにこの展開は、恩師でもある東洋大学ライフデザイン学部の稲沢教授のご助言から始まりました。

 

事業内容は精神障がいの方を対象とした障害福祉サービス。

 

新たな活動・事業拠点はもともと拠点としていた豊島区を第一候補にしましたが、隣の練馬区のほうが補助金等の優遇があり、人脈もあったため、練馬区で事業計画を進めていくことになりました。

 

しかし、練馬区は補助金等が優遇される反面、事業所の建築基準を練馬区独自で設けていました。

 

区役所の障害者施策推進課は開設に協力的でしたが、厳格な建築課の基準を満たすような適合物件がなかなか見つかりませんでした。

 

当時私は福島で生活していましたので、仕事が休みの週末に物件探しをするために上京するという期間が8か月以上続きました。

 

ようやく厳しい基準を満たす物件が見つかり、申込時の審査も通り、いざ契約を取り交わす直前でした。

 

仲介していた不動産屋が何やら申し訳なさそうに電話をしてきました。

 

話を聞くと、我々の事業内容を大家さんが高齢者のデイサービスだと勘違いしていたようで、「障がい福祉サービスだと近隣に迷惑がかかるから」との理由で契約することができないとの内容でした。

 

どうやら大家さんは、私たちの活動の「シルバーリボン」の「シルバー」を、高齢者の「シルバー」だと思い込んでいたようです。

 

福島と東京をどれ程往復したか。長い時間をかけて、ようやく見つけた適合物件なのに…

 

事業開始時期も決まっていたので、練馬区での事業展開は諦めるしかありませんでした。

 

身をもって”スティグマ”や”施設コンフリクト”の存在に直面しましたが、同時にシルバーリボン運動を展開する意義も再認識できました。

 

平成27年の4月に事業所開設を予定しており、そこで働くスタッフも、元々の仕事から転職して来てくれることになっていましたので、事業開始時期をずるずる引き延ばす訳にはいきませんでした。

 

そのような状況下のもと、新たな候補地として持ち上がったのが、私の地元の横浜でした。

 

横浜の中でも特に泉区というところは、福祉施設が多く集まり、障がい福祉サービス事業所も地域に溶け込んでいるようでした。

 

福祉サービスを展開しやすい土壌があって、なおかつ事業所として活用できそうな”箱”もたくさんありそうなことから、活動・事業拠点は横浜市泉区に決めました。

 

シルバーリボン運動を日本で始められた杤久保さんからのアドバイスもあり、生活拠点を横浜に移すことにしました。

 

その後、紆余曲折ありながらも、無事予定としていた平成27年の4月、横浜市泉区に障がい福祉サービス(就労継続支援B型)事業所を開設させることができました。

 

障がい福祉サービスを展開することで、否が応でも関係機関と連携を図る機会が増えますので、ネットワークもそれまで以上に広がっていきました。

 

そのようなことから、活動・事業拠点の確立は、大きな意義があったと思っています。

 

シルバーリボン運動は、

 

「精神疾患への理解を深め、当事者やご家族の負担の軽減につなげ、当事者が回復しやすくなるような社会の実現をめざす」

 

という理念のもとに活動しています。

 

元々、私がこの運動に携わるようになったのは、自分の実体験を何かに役立てたいと思ったからで、幸い私はそれなりの年月はかかりながらも、病気から回復することができました。

 

「精神疾患は誰が罹患しても不思議ではない。そして時間はかかれど回復することができる」

 

自分が苦しんできたことと同じように今苦しんでいる人に、シルバーリボン運動を通じて勇気や活力などがもたらされることになれば嬉しいですし、実際にそのような意義のある活動にしていきたいと強く思っています。

 

辛い経験は決してマイナスだけではない

シルバーリボン運動の展開や就労継続支援B型事業所の運営以外にも、私は自立援助ホームという施設を運営しています。

 

さまざまな事情から家庭で生活できない子どもたちに安心できる生活拠点を提供し、生活する上で必要となる生活の術を培ってもらい、後の自立につなげていく。簡単に言うとそんな施設です。

 

家庭で生活することができない社会的養護分野の子どもたちは、学習支援や就労支援が必要となりますし、施設を出てからのアフターケアもとても重要です。

 

施設へ入所するに至るまで、厳しく凄惨な生活を余儀なくされてきた子どももいます。しかし、それぞれの子どもが、それぞれに良いものを持っている。日々の子どもたちとのかかわりの中で、それを実感しています。

 

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自立援助ホームNEXT 外観

 

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自立援助ホームNEXT 個人部屋

 

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自立援助ホームNEXT リビング

 

この施設を運営するきっかけの一つとして、暴走族だった自分の10代の経験がありました。

 

暴走族仲間の中には、社会的養護施設の出身者もいましたし、複雑な家庭環境で育った者もいました。また、薬物やアルコール依存症の人も見てきました。

 

そのような自らの経験があったことから、社会的養護分野での見識を広げることができましたし、非行という観点からは当事者性に近いものもあったので、社会的養護分野に対する抵抗感などはありませんでした。

 

子どもたちとの関わりの中で大切にしていることは、向き合おうとする姿勢です。心と心とを向き合わせることです。

 

時にぶつかったり、すれ違ったりすることもありますが、それでも向き合おうとする姿勢をなくしてはならないと思います。

 

今まさに辛い状況に陥っている人はたくさんいるでしょう。でも、それって必ずしもマイナスなことだけではないと思います。

 

辛い経験をしたからこそ、得られるものや活かせることがありますし、その分、視野や世界観も広がっていくのではないでしょうか。

 

私もそうでした。「何で自分だけ」と嘆いてた時期もありました。

 

しかしその経験があったからこそ、病気になったからこそ、今の自分があると思います。その分、深みある人生を送れていると思います。

 

10代の頃の自分からしたら、今の自分の生き方を微塵も想像できませんでした。

 

辛い経験や目を背けたくなるような過去も、今となればかけがえのない財産となりました。

 

人生って本当に分からないものですが、自分次第でいかようになるのかもしれません。

 

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近藤雄太郎

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  • 本記事は2017年1月6日に公開されました。現在の状況とは異なる可能性があることをご了承ください。