暴走族から精神保健福祉士に。「何で自分だけ」と嘆いていた頃を乗り越えて

2017.01.06公開 2020.05.03更新
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就労継続支援のB型事業所・自立援助ホームの運営、シルバーリボン運動という精神疾患に関する啓発活動など、幅広く活動されている精神保健福祉士の関茂樹さん。

 

そのバイタリティの背景には、10代20代での強烈な原体験がありました。

 

今回のインタビューでは、関さんが精神保健福祉士として活躍される現在に至るまでのお話とこれからのことについて、お話しいただきました。

 

暴走族に入ることを決意したとき

母親が教育熱心だったこともあり、小学校の頃はわりと成績も良かったように記憶しています。

 

思い返せば、旅行先でも勉強させるような厳しい母でした。

 

しかし、兄が中学生となり、だんだん親の手を離れていったのをきっかけに、母親からあまり干渉されなくなりました。

 

そのうちに、なぜかヤンキー漫画にはまっていって、ヤンキーの先輩に憧れるようにもなって。

 

中学2年生から夜遊びもするようになったんです。警察のお世話になるようなことをしてイキがっていたように思います。

 

中学3年生の受験シーズン、上手かったサッカーで入れそうな高校を進路の先生に紹介してもらい、そこに進学することにしました。

 

でも、サッカーより興味あることが生まれてきて…。それが「暴走族」でした。

 

当時、兄貴の友人(先輩たち)が暴走族に所属していたんです。先輩たちが着ていた特攻服がとても格好良くて、それに憧れるようになりました。

 

高校に進学したらサッカーをやろうと思っていたのですが、暴走族に入ることに気持ちが傾いていきました。

 

暴走族に入ると決めた決定的な瞬間は、中学と高校との間の春休みのことでした。

 

パトカーの進路を食い止める「ケツ持ち」をしながら、地元の暴走族チームの特攻服が全国放送のTV画面に大きく映り、「ああ、俺もあの特攻服を着たいな」と。

 

今考えれば本当にしょうもないことなんですが、当時の自分には衝撃的で「やっぱり俺、暴走族をやろう」と決めたんです。

 

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高校は、親の手前もあって最初の1学期だけ行き、暴走族に入ったのは、高校入学と同時期からでした。

 

集会という名のもと、バイクで爆音を響かせて、午前1時~3時くらいまでの深夜、横浜・湘南地域を走り回っていました。

 

暴走族って「なめられちゃいけない」とか「チームの看板に傷つけられちゃいけない」っていうのがあるんですよ。だから喧嘩もしょっちゅうしていました。

 

週に一度の幹部会では、不良が150人~200人くらい集まっていましたね。

 

先輩に対して少しでも失礼があれば、厳しい仕打ちを受けました。

 

不適切かもしれませんが、あの頃は毎日必死に、なんて言うか暴走族を一生懸命頑張っていました。

 

恥ずかしながら、将来のことなんて全く考えていませんでしたね。

 

ほとんどの仲間が鑑別所や少年院に行きましたが、幸い私は1回も行かないで済みました。

 

運が良かったというのが一番だと思いますが、母親の存在も大きかったように思います。

 

警察のお世話になり、その後家庭裁判所に呼び出された際には、その都度、母親が頭を下げてくれました。

 

どんなに迷惑をかけても、母親は自分を見捨てようとは思っていなかったようで、そういう意味でも恵まれた家庭環境だったように思います。

 

私の両親は真面目に生きてきた人で、親族も優秀な人が多いとのことでした。

 

だから、自分が暴走族になったことで両親は親族から白い目で見られたり、色々と言われたりしたのだと思います。

 

また、自宅には暴走族仲間がたむろしたり、度々パトカーが現れたりして…。

 

真面目だった両親からすれば相当辛かったでしょうし、とても胸を痛めただろうと思います。

 

暴走族引退後に襲った身体の不調

暴走族を引退してから間もなく、微塵も想像していなかった出来事が、突如わが身に降りかかることとなりました。

 

夜寝ていると突然、身体中に電気が走るような感覚で飛び起きました。すると全身にじんましんが出ていて。

 

それまでは病気とは全く無縁の生活を送っていて、体調が悪いっていうことがあまりなかったのですが、うまく言い表せない尋常ならぬ違和感が体にありました。

 

その日を境に、急激な体調不良が始まりました。

 

今思えば環境の変化が原因の一つなのかもしれません。暴走族を引退してからは生活が変わりましたから。

 

また、暴走族の世界での厳しい人間関係などから知らず知らずに疲労やストレスを蓄積していたりして。色々と複合的な要因があったのかもしれません。

 

一番つらかったのは睡眠障害でした。とにかく全然寝られなかったことですね。

 

物事が全然リアルに感じられないし、あらゆる感覚が麻痺しているような感じ。

 

それまでの自分と今の自分が別人のようにも感じました。

 

誰にも言えなかった受け入れられない現実

自分が自分じゃないみたい、目に映るものにフィルターがかかっているような感じ。

 

感情・感覚鈍麻…今思えば、うつとか統合失調症に見られる色々な症状がわが身に現れました。

 

思考能力がひどく低下し、物事が全然理解できなくなり、人と人とが話している内容もよく分からなかったりもしました。

 

あれこれ忘れっぽくなったり、極端に物覚えが悪かったり。

 

そういう不調が立て続けに起こって、最初は現実を受け入れることができませんでした。

 

仕事はおろか、日常生活にも支障が現れ、とにかく焦り、不安になりました。

 

焦り、不安、考え込み、疲弊し、落ち込み…そんな終わりのない悪循環に陥りました。

 

「アイツ最近元気ないよな、少し変だよな」と周りに思われたりもしたと思います。

 

それを過剰に意識して、変な噂が立たないように、自分の中の異常を悟られないようにと無理して平然を装ったりもしました。

 

当初、自分の体調不良を友人はもとより家族にも言えませんでしたね。もともと何か困ったことがあってもそれを誰かに相談するタイプではなかったですし。

 

私の変化に何となく勘づいて「最近なんか変じゃね?」と気にかけてくれた人もいましたが、「別に。大丈夫」と返すやり取りもありました。

 

ただ、全然寝れなくなったことに困惑し、「最近よく寝れないんだけど、どうしたら寝れるようになるかな?」って友人に相談したことはありました。

 

「寝れない=おかしくなった」と思われることはないと思っていましたので。

 

しかし当時の友人からは、「酒飲めば寝れるよ」とか「ずっと寝なければそのうち寝れるよ」などの返答で。

 

そこまで深刻な状況だとは思われてなかったと思います。

 

検査結果は「異常なし」

3~4ヶ月ほど体調不良が続いて、これはおかしい、我慢し続けるのは良くないと思い、そこで初めて病院に行くことにしたんです。

 

しかし”内科”で受けた検査の結果は「異常なし」。

 

こんなに体調が悪いのに、そんな訳あるかと検査結果を受け入れるのは難しかったです。

 

検査結果に異常が見られれば、原因を特定でき、治療することができると考え、無意識的に検査結果に何かがあることを求めていたと思います。

 

当時は精神科や心療内科というのは、とても敷居が高くて気軽に行けるような場所ではありませんでした。

 

まさか自分が精神的な病気にかかるとは思っていなかったですし、そんなこと微塵も考えられませんでした。

 

精神疾患を患ったなんて認めることができず、ましてや精神科に行くなんて考えられなかった。

 

だから内科に行ったのですよね。

 

そこで医師から言われたのは、「自律神経失調症」。

 

どうしたら治りますかと尋ねると、淡々と「規則正しい生活を送るしかないですね」と言われて。

 

それができない状況を困っていたのですが、こちらの訴えには耳を傾けてもらえませんでした。

 

その後、幾つもの病院を訪ね、診察や検査を繰り返し、時は過ぎれど症状は一向に良くならず。

 

やがて医師のことを信頼できなくなり、体調も良くなる気配はなく、限界でした。

 

横柄な態度の医師と喧嘩をして「もう来ねえよ!」と吐き捨てたこともありました。

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近藤雄太郎

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  • 本記事は2017年1月6日に公開されました。現在の状況とは異なる可能性があることをご了承ください。