過干渉な母親、うつ病での休職、死産…開き直れて始まった第二の人生

2017.09.20公開 2020.05.24更新

今回のインタビューは発達障害などの情報を発信する雑誌、『きらり。』を出版する、みのりの森代表の朝倉美保さん。

 

朝倉さん自身、過去に過労でうつ病と診断を受けて休職を余儀なくされた経験を持つ、発達障害者当事者でもあります。

 

今回は朝倉さんのご経験から現在の活動に至るまでのお話やメンタルヘルスへの向き合い方についてもお伺いしました。

 

〈インタビュアー 近藤雄太郎〉
 

うつ病発症前と休職中のつらさ

私が自分のうつ病に気付いたときは、24歳。

 

当時、管理栄養士の資格を持っていて、新卒で入った健康食品を扱う会社で働いていました。

 

商品の在庫管理、品質管理などをしていたのですが、仕事量が増え始めてから、夜中まで仕事をしたり、電車がなくなっても仕事をするような状態が続いていました。

 

そんな中で、新しいプロジェクトにも携わり始めたことがきっかけでパンクしてしまったんです。

 

過呼吸から始まって、「何かちょっとおかしいな」と思っていたら、今度は眠れなくなってしまって。

 

部下からの電話もかかってくるので、どんどん休めなくなってしまい、周りからも「何かちょっとおかしいよ」と言われるようになってしまいました。

 

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もともと大食いだったのに、食べても食べても痩せていくのでおかしいな、とは思っていました。

 

それに加えて、急に悲しくなったりすることもあって、どうしたんだろう…とも思っていました。

 

そんな中、会社の同期でうつ病になったことのある子が「あなた、多分うつだと思うから病院へ一緒に行こう」と、一緒に病院へ行ってくれたんです。

 

その時、どの病院に行ったらいいのかも分からなかったので、とても心強かったことを覚えています。

 

病院でうつと診断されて休職するように言われたのですが、仕事がすごく溜まっていた状態だったので戸惑いました。

 

でも、周囲からは「とにかく休め」と言われたので、この際だからと決心して休職することにしました。

 

休職後は、「いつもの休みの日のような過ごし方をしたらいいのかな」と、気楽な感じで考えていましたが、実際はそうではありませんでした。

 

そのとき、私は実家に住んでいたのですが、

 

「うつ病で休職するとなったら、おとなしく過ごしなさい」

「活動的になってはいけない」

 

と、母親が過剰反応してしまっていたんです。

 

私としては、旅行に行ったりして、のんびり休暇を過ごそうと思っていたんですが、「旅行に行くなんてとんでもない」と母親に止められたことは結構ショックでしたね。

 

それからは、「もう何もするな」と母親に色々と制限されてしまって。

 

もちろん、旅行に行っても疲れてしまうようだったら旅行に行っては駄目なんです。

 

なので、旅行に行くことを母が止めたのは正解だったと今だったら思えます。

 

ただ、そのときはまとまった休みが取れていなくて、「せっかくだから沖縄や海外にも行きたいな」と考えていたのに、それを全否定されたショックが大きかったですね。

 

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もともと小さい頃から、母親との関係があまりうまくいっていなかったこともあって、うつ病が悪化してしまったと言えるとも思います。

 

母親にはヒステリックな面があって、私が小さい頃の母には穏やかなときがあまりありませんでした。

 

私が幼少期の頃から、母は「何かよく分からないけど、常に怒っている」という状態だったので、びくびくしながら過ごしていました。

 

母親と目が合うたびに、「あそこが悪い、ここが悪い」と言われることもよくありました。

 

中学の友達がうちに遊びに来たときに、母が私を呼ぶときの言い方がすごく怖かったらしくて、

 

「お母さん、何であんなにいつも怒ってるの?」

 

と、言われたこともあります。でも、私は「あれが普通なんだよ…」と。

 

小さい頃から常にずっとそんな感じだったので、もはや怒りとも感じず、普通になっていたんです。

 

手が出だしたらさらに怖いので、口で言っているだけならまだ良いほうでした。

 

うつになって母親が過干渉に

社会人になり、うつになってから母親の干渉が過剰になりました。

 

うつに良いと言われるものが本に載っていると、「これは絶対に食べなさい」とか「朝昼晩、しっかり日光浴をしなさい」とか…。

 

すごく徹底していて、私はそれが嫌で精神科医の先生にも母親について相談していました。

 

「母は何かの病気ではないですか?」と聞いたことがあるんですが、「あれはもう性格になってしまっているから治らない。もうしょうがないね」と言われてしまいました。

 

ちょっと絶望でしたね、「もう、治らないんだ」と思って…

 

病院では「とにかく母親から離れなさい」と言われました。実際、母親が原因で病気が悪化することも多々ありました。

 

そういうことが多過ぎたので、「一人暮らしをしてみたら?」と何回も勧められました。

 

それで新しい会社に入ってから、実家を出ることができたのですが、週に1回は母親が一人暮らしの家まで来ていました。

 

日曜日になると必ず来て、部屋の状態とか冷蔵庫とか全部チェック。せっかく実家を出ても、気が休まらなかったですね…。

 

実家には、病院に行くときに寄るようにしていたので、「うちには来なくていいじゃない?」と言っても、「信用ならない」と聞く耳を持たずの状況でした。

 

女子集団からのいじめ

自分の過去を振り返ると、幼稚園の頃は活発に遊ぶ子でした。

 

とにかく動き回っている子でしたね。やりたいと思ったらすぐやってしまう子で、今言えば「多動」だったのかもしれません。

 

幼稚園の頃の勢いのまま、小学校では学級委員長をしたり、運動会でも生徒代表で挨拶をしたりもしました。

 

周りからはあこがれとして見られる一方で、“できる子”と思われて、ねたまれることもありました。

 

実際、「運動神経のいい、人気の男の子からあこがれられている」という噂が出回っていて、その男の子を好きな女子の集団からいじめられることもありました。

 

最初は、色々なものを隠されることから始まり、道具箱の中身の半分ぐらいが無くなってしまったり。

 

それでも、いじめられていたことを母親には言えませんでした。

 

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大学生になってから、やっといじめられていたことを伝えましたが、逆に「何で言わなかったの!」と怒られてしまいました。

 

どちらにせよ、その当時にいじめられていることを言ったら、相手の家に乗り込んでいきそうなお母さんだったので、今振り返っても、いじめを受けていたことは、やっぱり言えなかったと思います。

 

中学は親が決めてい私立の女子校へ進学。

 

女子の集団が苦手だったので「どうしよう」と思っていましたが、性格が似ている子が沢山いたので、すごく気楽で良い環境の中で楽しく過ごすことができました。

 

中高の間は平和な学校生活を送っていましたが、親からは、

 

「京都にある、国公立の大学に入れなければ学費を全部返しなさい」

「そこの大学に合格しなければ大学には行かせません」

 

という条件が出されていたので、中高は勉強ばかりしていました。

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近藤雄太郎

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  • 本記事は2017年9月20日に公開されました。現在の状況とは異なる可能性があることをご了承ください。