発達障害で仕事が続かず、うつ病で退職も。今安定して働く私の「自分トリセツ」

2018.02.04公開 2020.06.05更新

今回のインタビューでは、発達障害、うつ病と向き合いながら、岐阜保健短期大学で専任講師として働く、稲葉政徳さんにお話を伺いました。

 

頭蓋骨の奇形で始まったいじめ

初めまして。稲葉と申します。35歳で理学療法士の免許を取り、現在18年目になります。

 

また、47歳で大学院の修士課程を修了しまして、健康科学の修士号を持っています。

 

大学院にいる間に2年間、うつ病で闘病生活を送り、なんとか卒業できました。

 

その後、自宅療養期間を経て、今、現在働いている岐阜保健短期大学リハビリテーション学科で理学療法学生専任講師として採用されました。

 

短大に勤めて現在6年目になります。

 

理学療法士になってから発覚したのですが、頭蓋骨縫合早期癒合症という頭蓋骨の奇形がありました。

 

頭蓋骨の融合があって、顔面骨にも影響が出て、どうしても眼球突出があるんです。

 

これは精神科のお医者さんにも指摘されましたが、頭蓋骨の奇形で、特に前頭葉の部分が狭くなっていて、脳に未熟な部分があるようです。

 

幼いころはその風貌による、嫌がらせや差別を受けてきました。

 

そのせいで、保育園、小学校、中学校では良い思い出がありません。

 

発達性協調運動障害というものが発達障害の中にありますが、私がまさにそれでした。

 

中学では数学と体育の成績だけ1か2で。

 

昭和50年代半ばの頃、発達障害という概念が一般的ではなくて、酷いいじめに遭いました。

 

いじめの期間は長かったのですが、中学時代が一番きつかったです。

 

中学校時代のいじめってえぐいんですよね。

 

思春期で、心身の変化もあって、とにかく不安定で。

 

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中学校のいじめと小学校のいじめの違いは、「辱めに合う」ということです。

 

私も何回もズボンを下げられました。

 

こんな私にも初恋があって、その子と話すとドキドキしたりしていました。

 

「その女の子も、私のことを良いなと思ってくれているかも」と思っていた矢先に、いじめっこにパンツを脱がされて…。

 

その噂が広まって、その女の子は私を避けるようになりました。

 

中学を卒業したら工業高校に行きたかったのですが、

 

「お前、数学と体育が1とか2だろ」

「それじゃあ工業高校には行けん」

 

と、担任に言われて、偏差値36という滋賀県下最低ランクの高校に行きました。

 

高校の勉強は嫌いではありませんでしたが、理解できず、成績も中間くらいでした。

 

小・中学校といじめられ続けて、高校でもいじられ役ではありました。

 

でも、高校でバンドを組んで、最終的には2年生、3年生の文化祭でバンドを2つ掛け持ちしていました。

 

その時はベースを弾いていたんですよ。

 

小学校の幼馴染でギターを弾いてる男友達がいて、その影響で、私も中学3年生ぐらいからギターを弾いていたのがきっかけでした。

 

高校の文化祭での体験は、自分の中では成功体験であり、充実感や達成感がありました。

 

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こうして振り返ると、もう1つ転機だと思っていることがあります。

 

小学校4年生の時に描いた絵が滋賀県の展覧会で佳作に選ばれたんです。

 

さらに、小学校5年生の時には、紙粘土で作った作品が展覧会に出展されました。

 

多分、発達障害の方に割とある、独特な思考や認知が「ユニークだ」「特徴がよく出てる」という評価に繋がったのかもしれません。

 

いじめられて辛いことがあったにも関わらず、小さくても成功体験があったことが今に繋がっているんじゃないか、と思っています。

 

単純作業は向かない私が選んだ就職先

高校を卒業してからの進路はなかなか決められませんでした。

 

看護師の母親に「リハビリの専門職はどう?」と、理学療法士や作業療法士を勧められて、私もそれを目指そうと思っていましたが、いざ看護系の過去問題集を買って勉強しようと思ったら難しくて。

 

担任の先生に見せたら「お前な、これは至難の業どころちゃうで」と言われ、一蹴されましたね(笑)

 

看護系が無理なら何になろうかと考えて、

 

「音楽をしていたからプロのミュージシャン」

「超不器用だから無理だな」

「じゃあ音楽関係の出版社に行くか」

「放送部の部長をやってたからアナウンサーになりたい」

 

と色々言って、結局進学したいと言い出しました。もうわけ分かんないですよね(笑)

 

父は織物会社の染め物の職人で厳しい人でした。

 

私は4人兄弟の長男で、進学したいと言うと、「今の経済状況では進学は難しい」「就職してくれ」と言われました。

 

高校3年生の三者面談でも「就職してほしい」と親に言われました。

 

担任の先生も「次の人が待ってるから、今決めろ」と言って、求人票を出してきたんです。

 

「えっ、今?」と思いながら、結局ホテルのウェイターに決めました。

 

自分には単純作業は向いていないと思っていたので、変化のある仕事を選んだんです。

 

高校時代にスーパーの自転車を整理するアルバイトをしていたんです。

 

友達と一緒にやっていたのですが、楽しくて2年間続きました。

 

でも、部品を作るアルバイトをしていたときに、発達障害の特性が出て、単純作業でパニックと言うか、気分が悪くなってしまって…。

 

作業場の隅っこで、パニックを鎮静させようとしていたんです。

 

そしたら、おばさんに「稲葉君がサボっている」とチクられて、工場長から「辞めてもらっていいよ」と言われてしまいました。

 

頑張ることを約束して、なんとか1年続けましたが、自分には単純作業は向かないな、とそのとき身をもって感じました。

 

実はウェイターの仕事は2ヶ月で辞めてしまいました。

 

接客業で覚えることがたくさんあってもなかなか覚えられず、結局いじめられてしまって…。

 

入社研修の時代からいじめを受けました。大人のいじめです。

 

「お前、あほやろ」

「そんなことも分からんのか」

 

と、ぼろくそに言われました。

 

これも発達障害の影響だと思いますが、年上の人に対してため口で話したりするなど、私にも悪い所があったんです。

 

主任に後ろから「おはようございまーす」と挨拶したり。

 

今だから言えますけど、恥ずかしいですね。

 

「それはないだろう」とも思います。でも悪気はなかったんですよ。

 

純粋に挨拶をしようと思って、ちょっとフランクな感じになっちゃったみたいな。

 

そうやって怒られながら、自分の振る舞いをなんとか正してきました。

 

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「情けない」「根性ないな」

辞めた後、妹には「情けない」と言われました。

 

高校時代、お世話になった新聞配達の所長さんには「お前、根性ないな」と言われ、あまり理解されませんでした。

 

田舎だったので、仕事を辞めるということ自体に偏見がありましたね。

 

昔は1つの会社にずっと勤めていくものだったし、田舎だったので余計にそういった考えが根強くて。

 

その後は、フリーター状態で進路を模索しながら、ファミレスに勤めましたが、そこでも地獄を味わいました。

 

やっぱり仕事は覚えらないし、シェフが作った料理を落とすようなミスもしました。

 

当時、月10万円の給料を現金支給だったのですが、店長が給料を渡す前に、

 

「お前にこの金を渡すこと自体、ムカつくねん」

 

と言われる始末でした。

 

ファミレスの仕事は冬まで勤めましたが、自分の中で色々と模索して、進学したいと思うようになりました。

 

でも、親は「金がない」と言う。

 

そこで親に頼らずに進学をする方法を探して、各新聞社がやっていた「新聞奨学生制度」を使うことにしました。

 

新聞屋さんに住み込んで、新聞配達をしながら大学に通う、という制度です。

 

私が受験したのは国士舘大学の短大でした。

 

当時は静岡大学の短大もあって、その2つに絞りましたが、私立のほうが結果が出るのが早いので、国士館に決めました。

 

数学、体育の成績はどん底でしたけど、国語、英語は得意だったので、国文科に入りました。

 

神奈川の大和市の新聞屋さんに住み込んで、新聞配達をしながら町田市にあるキャンパスに通っていました。

 

短大では1クラス180人のうち男子が10人しかいませんでした。

 

知らない人は「ハーレム状態だね」と言いますが、男子は結構、肩身が狭い思いをしていたんですよ。

 

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新聞奨学生制度を使っている以上、コンパとか飲み会の経験は全くありませんでした。

 

でも、経済的な理由で進学できず、就職先でいじめられて引きこもってしまった同級生もいて、自分は短大に行けただけ良かったんだ、と思っています。

 

ただ、1年生の冬、新聞配達中に車との衝突事故に遭い、足を複雑骨折し、さらに後遺症で障害が残ってしまったんです。

 

ただ、怪我の功名でなんと保険金で200万円が下りたんです。

 

その200万円は次の学校に行くための費用にして、短大卒業後にまた進学しました。

 

二度目の進学先は、信濃町にあったカイロプラクティックの学校です。

 

理学療法士は諦めましたが、カイロプラクティックという資格を目指すことにしました。

 

カイロプラクティックは欧米では国家資格化されていますが、日本では民間資格でした。

 

当時は「カイロプラクティックで開業しよう」という夢もありましたが、それは実現できず、生活費はアルバイトで稼いでいました。

 

短大を卒業してから、吉野家でアルバイトをしていて、合計6年間続いていたんです。

 

吉野家でも仕事が覚えられなくて、1年目は強烈に怒られました。

 

牛丼のご飯を盛るのが汚かったり、具が玉ねぎばかりになったりして。

 

そこで、ご飯をよそって量ることを人一倍練習したら、不器用な僕でも3年目ぐらいには店長代行になっていました。

 

それでも、お金の管理ができなかったり、いろいろとミスをしたことで後輩に責められてしまい、居づらくなって辞めてしまいましたね。

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近藤雄太郎

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  • 本記事は2018年2月4日に公開されました。現在の状況とは異なる可能性があることをご了承ください。